今日もシンガポールまみれ

日本のあっち、シンガポールのこっち

検証記事:花輪陽子氏「シンガポール人は老後資産に1億円以上が当たり前」は本当か (東洋経済)

シンガポールウォッチャーのうにうにです。
東洋経済オンラインにて「シンガポール人が日本人より超金持ちの理由 老後資産の目標額は1億円以上が当たり前!」という花輪陽子氏の記事が掲載されました。
今回は東洋経済という大きな媒体で、更にアクセスランキングでも1位をとったとのことです。本記事はニューズウィーク日本版ヤフーMSNへの配信もされています。シンガポールへの誤解が定着することを避けるため、東洋経済記事を引用しながら、内容を検証します。

toyokeizai.net

東洋経済記事の検証

花輪陽子氏はシンガポール在住のファイナンシャルプランナーとのことです。名称独占資格の1級ファイナンシャル・プランニング技能士であり、日本の職業能力開発促進法に基づくものなので、海外では資格の影響はありません。シンガポールでは、FPASというNPO団体が行っているCFPというファイナンシャルプランナー資格がありますが、花輪陽子氏はこちらへの言及はありません。なお、業務資格の有無にかかわらず、外国人が当地でビジネスをするのには、ビザ(EPやLOC)など就労資格が必要になります。

シンガポールに公的年金はないのですか?

シンガポールは、 (略) 小さな政府であるため、先進国にかかわらず公的年金がありません

シンガポールに公的年金はあります。
該当記事でも後述されているCPF (Central Provident Fund=中央積立基金) がそれです。国民と永住者は強制加入です。永住権を持たない外国人は、現在は新規加入できません。CPFはシンガポール労働省管轄の公的機関です。CPFには多彩な機能がありますが、

  • 本人と雇用主からの強制貯金
  • 住宅購入等、医療、年金の3つの口座

が特徴です。納付には所得税からの控除もうけられます。CPF自身が「CPFは定年に備えて、安心と信用をもって、多くの働くシンガポール人に包括的な社会保障の貯蓄計画を提供するもの」と説明しています。

記事でも「厚生年金のように」とCPFを表現されているのに、なぜ公的年金でないと判断されたのか理解に苦しみます。

シンガポールの老後には1億2千万円が必要なのですか?

「老後に1億2000万円必要だから」シンガポールの知識層からたびたび聞くフレーズ

シンガポールの"知識層"の定義が本文中で示されていないのですが、記事のタイトルが「老後資産の目標額は1億円以上が当たり前!」と書かれているので、過半数と捉えて良いでしょう。
老後資金の統計は、私が調べた限りでは見当たらなかったのですが、シンガポール政府が示した必要資金のモデルがありました。
シンガポール政府は金融知識の普及のために「マネーセンス」というウェブサイトを作っています。そこでは62歳で、3,500万円(S$43万)の金融資産がモデルとして示されていました。

  • 現在の物価価値で、年140万円 (S$1.8万) を老後に使いたい。
  • 今後のインフレを考慮すると、現在の200万円 (S$2.52万) に該当する。
  • シンガポール人男性の平均余命が83歳。62歳に引退するとする。83-62=21年間にわたって、毎年140万円相当を使うためには、引退時に3,500万円 (S$437,245)が必要になる。
  • MoneySENSE: The MoneySense Guide to Planning for your family's financial future (22ページ)

国民一般が対象の文書ですから、62歳で3,500万円は中間か平均に近い数字と考えて良いでしょう。その根拠となる「一人月額12万円」の妥当性については、後述します。

シンガポールの年金生活者は月に30万円も使うのですか?

シンガポールの老齢者の月間平均支出は、30万円

間違いです。これには政府統計があります。統計での最大支出額の範囲となっている、月間支出が16万円($S2千)以上は、65~74歳でわずか8.0%です(2011年)。統計分類上で最も多いグループは月額4万円~8万円を使う人で37.4%を占めます。
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2011年と若干データが古いのですが、2011年から2016年の物価上昇率は累積でも6%にすぎないので、今でも月間支出が16万円(S$2千)以上の人は1割前後でしょう。これが、マネーセンスの金額の「なぜ老後は月額12万円(S$1,500)でよいのか」という根拠になります。

この金額で十分なのは、シンガポールの持ち家率の高さが貢献しています。日本の持ち家率は全国平均で61.7%(2013年)ですが、シンガポールの国民・永住者の持家率は90.3% (2014年) にもなります。CPFで強制貯金されており、CPFの限られた使用用途の一つが住宅購入であり、シンガポール人は自国に不動産を持つように動機づけがされています。
高齢者は更に持ち家率が高いです。65歳から74歳は、98.2%が持ち家です。住宅ローンが終わっていれば、衣食への費用は大したことがなく、不安は医療費程度になります。

シンガポールでは収入の1/3を積み立てても老後資金に不足するのですか?

若いときから収入の1/3を積み立てていれば、有事のおカネをすべてまかなえるかというとそうではありません。
「インフレに負けない」3%以上で運用する

記事の説明では不正確です。若いときから収入の1/3を積み立てていても、老後資金に困るって、どんな修羅の国なんですか。

CPF以外に老後資金を準備するのが望ましい理由は、CPFは年金以外にも住宅購入・医療に使われることと、積み立て金額に上限があるためです。
CPFは住宅購入・医療・年金の3つの口座があり、口座の積み立て比率は年齢によって異なります。35歳以下では、約6割が住宅購入口座に入り、年金には16%しか入りません。35歳以下では、収入の5%程度しか年金積み立て用の口座に入れていないのです。60歳~65歳になると、住宅口座には約2割しか入らず、年金に15%、約6割は医療口座になります。

CPFの強制貯金は、月収S$6,000以上の収入で打ち止めです(別途ボーナスなどでの積み立てはあり)。つまり、$6,000を超えた収入の人は、老後も類似の生活水準を維持するには、CPF以外での老後資金運用を考える必要があります。日本でも「年金だけで老後資金の大半がまかなえる人」は、限られているのと似た状況です。

余談ですが、シンガポールは税が安い国として知られていますが、国民はそうだとはさほど感じていません。これは月給S$6千(約50万円)までは、雇用主負担分を含めて収入の1/3をCPFに納付するからです。これが、CPF上限の月給S$6千を超えると、一気に負担が楽になります。

おいしいCPF

シンガポールでは昨年のインフレは0.6%でした。2006年から2016年の十年間では、年あたり2.4%です。

CPFは非常にオイシイ制度です。世代間格差を生む日本の賦課方式の年金とは異なり、積立方式です。自分が貯めたものを、老後などのタイミングで自分が受け取るのです。その間は、複利運用が当然されます。ポイントは

  • そこそこ高い金利
  • 政府の元本保証

です。目的によって異なる口座種類や、口座額によって違いますが、利息が2.5%~5%にもなります。私は元本保証でこれよりオイシイ金融商品を世界中に知りません。知っている人がいれば教えてください。
: 住宅購入等に使える普通口座は2.5%、医療口座と年金口座は4%。しかもS$6万までは、プラス1%のボーナス利息があるのです。利息は市場に応じて定期的に見直されていますが、最近はずっとこの値です。

インフレを考慮しても、普通口座であれば元本価値キープ、医療口座と年金口座は貯蓄を増やすことができます。日本の現役世代からは垂涎の制度に見えますが、これでも不満があるシンガポール人がいるのが、驚きです。

シンガポール人はそんなに金融知識が高く、運用益を得ているのですか?

元本保証CPFを止めて投資運用にでたシンガポーリアンの末路

シンガポールのように、自助努力でおカネを準備しなければならない

記事を通して、いかにシンガポール人(知識層)が金融リテラシーに高く、自助努力で老後の運用益を抜け目なく得ているかのように、印象づけられています。これは必ずしも事実ではありません。

CPF運用の王道は元本保証での政府への一任ですが、CPF口座残高が一定額を超えると、認定された金融商品に、リスクを取って個人の判断で投資をできる制度があります。CPFインベストメント・スキーム (CPFIS) といいます。

ところが、政府発表(2016年)では、CPFISでリスクをわざわざとりにいった人は過去10年で45%が損失を出しています。マイナスです。35%の人は、利益を上げていても、CPFであれば保証されていた2.5%未満でした。つまり、8割の人は不要な積極投資をしてCPFであれば得られた収益を逃しています

なお、2015年の単年では、CPFISを2.5%以上の利益が27%、2.5%未満の利益が15%、損失が58%です。2016年の単年では、市場上昇を受けて、78%が2.5%以上、2.5%未満の利益は10%、損失が12%となっています。年金なので上述の長期の10年スパンという発表で判断するのが適切でしょう。



なぜこんな惨状になってしまったのかについて、シンガポール政府は2点を指摘しています。

  1. CPFISの投資に必要な投資マネージャーへの手数料
  2. 市場に熱がある高い時に買い、価格が弱気になると売る平均的な投資家の行動をとるため

ファイナンシャルリテラシー以前の話として、営業のコストはまわりまわって消費者の支払いに含まれるという原理原則があります。シンガポールにおいても、金融商品の街頭キャッチセールスや、営業員との喫茶店での会話を見る機会は多く、この理解は徹底されていると思えません。営業に時間をかけて「説明」され「相談」して買う商品やサービスには、直接的なコンサル費としてではなくても、販売奨励金などで結局は買い手がコストを払っています。キャッチセールスや訪問販売が避けられるのは、それだけの営業コストを買い手が払う必要がある割高商品だからです。
特に金融商品では、投資益を販売会社・運用会社と投資家とで、分割する構造があり、消費者が利益を高めるためには販売会社や運用会社の手数料が少ない商品を選ぶことが有利になる大きな条件です。
日本の金融庁では、「販売手数料等の高低のみで、その商品の良し悪しを評価するものではないが、販売会社においては、販売手数料等の水準が顧客に提供されるサービスの対価として見合ったものか否か、同種の金融商品においてより販売手数料等が低い商品が存在するにもかかわらず販売手数料等が高い方を販売・推奨等していないか」という率直な提言をレポートしています。

CPFは用途が限られているため、個人が自由には使えません。なので、「どうせ年とるまで使えないなら、積極投資にまわすか」という選択なのですが、元本保証で2.5%~5%がとれるのに、わざわざリスクを取りにいってCPFISをしている時点で、ファイナンシャル・リテラシーは本当に大丈夫な人なのか、ということがあるように私には見えます。積極投資をする原資は、CPF納付とは別の所から出せばいいのに、ということです。

投資型の保険に加入(所得控除あり)

間違いです。所得税控除がある保険は、投資型でない生命保険のみです。

CPFISに投資型保険 (ILP) の投資もあり、それへの誤認と思われます。

医療費の自己負担が6割程度

私立病院には政府補助はありません。そのため、請求金額が公立病院より高いこともあり、ミドルクラスで私立病院にかかるには、健康保険への支出を増やす必要があります。家計への負担は大きくなるため、公立病院とその保険を前提にするミドルクラスも一般的です。
公立病院外来では、専門医にかかるのに、補助が50%からです。公立病院入院では、国の補助金が1人部屋なし、4人部屋20%、6人部屋50~65%、8人部屋65~80%。日帰り手術では最大65%の補助を受けられます。
一般医での医療費補助に必要なCHAS加入資格は、世帯員の平均収入が月$1800(14万円)以下という所得制限があります。
いずれも国民の場合です。

つみたてNISAは、定期・定額での積立投資に限定した制度で、年間40万円までの投資枠に対し、その利益が20年間非課税となります。
シンガポール人も、税制の優遇を受けられる口座で運用をして、老後資金を作っています。

そもそも、シンガポールはキャピタルゲイン(資本利得)が非課税の国です。ですので、全ての口座が日本と比べると税制優遇です。
そのシンガポールの環境で、改めて「税制の優遇を受けられる口座」というと、記事にも記載があるSRS (Supplementary Retirement Scheme) があります。SRSでの優遇税制は、SRSで投資した額への所得税からの控除で、利益への税金が非課税になる日本の"積立NISA"とは違います。
また、税のメリットに制限が色々あるため、SRS口座開設数は2016年末でわずかに13万です。「シンガポール人も税制の優遇を受けられる口座で運用をして、老後資金を作っています」と言える数には程遠いです。

なぜシンガポール人は豊かなのか

記事のタイトルは「シンガポール人が日本人より超金持ちの理由」ですが、肝心の超金持ちの理由は記事では明示されていません。「世界一豊か」とも記載がありますが、一人当りGDPで、シンガポールはカタールやルクセンブルグなどに劣っていますが、なぜ「世界一」なのかも明示ありません。
私が過去に、シンガポールと日本の豊かさをGDPで比較した際に、シンガポールは日本に圧勝でも、シンガポールと東京都だとほぼ同じ一人あたりGDPとの結論でした。
uniunichan.hatenablog.com

私からは、シンガポールが豊かである理由として、フローとストックのそれぞれで

  • 共働き
  • 資産インフレ

の2つを指摘します。

フロー: 共稼ぎ

共稼ぎ率
日本 47.6% (2015年)
シンガポール 53.8% (2015年)

シンガポールは日本より7%ぐらいしか数字上では共働き率は高くありません。ところが、シンガポールでは特に出産後もフルタイムで働く女性の比率が高いのです。これが、日本との家計の決定的な差になります。共稼ぎでないと食っていけない経済事情や、外国人住み込みメイドなどが早期職場復帰と共稼ぎを支えています。
uniunichan.hatenablog.com

その結果、

世帯収入中央値 世帯収入平均
日本 428万円 545万8千円 (2016年)
シンガポール 864万円 (月S$9,023) 1152万円 (月S$12,027) (2017年)

と世帯収入が、中央値と平均値で倍以上、シンガポールに突き放されています。
※成人した子どもの親との同居率が高いことと、核家族化の進行が日本よりゆるやかなのが、シンガポールの世帯収入を押し上げる要因になっているのは留意事項です。
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  • シンガポール統計局: Key Household Income Trends, 2017

ストック: 資産インフレ

もう一つが資産インフレです。シンガポール人は働きだして、結婚となると、真っ先に住宅(HDBと呼ばれる公団)の購入を予約します。シンガポールは、社会人になっても、結婚までは親と同居が一般的です。理由は、国土が小さすぎるので交通の便を理由に引っ越す理由がないことと、賃貸が高すぎることです。
家を買うのは、新しい家族のプライバシー確保に加えて、(少なくとも中長期では)不動産は絶対に上昇するという確信がシンガポールにはあるためです。不動産を買うと、買った値段より中古なのに高く売れるのが常識なのです。「新築の家は買った瞬間に、2割値下がりする」と言われる日本とは大違いです。これがシンガポールの持ち家率の高さを支えています。日本のバブル時代のような考えが当地では一般的で、「持ち家 VS 賃貸」論争がある日本人の私からすると「大丈夫か」と不安になります。
シンガポールの不動産指数を掲載します。近年は、政府が過熱防止の為に印紙税を導入し上昇を無理矢理抑えていますが、時々ある経済クラッシュとアジア通貨危機後の低迷を除くと、基本的には右肩上がりです。
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かくして、シンガポールでは、収入を上げ、資産も貯まっていくのです。

海外記事の質と、その向上には

メディアは状況と異なる印象を与えることができます。中途半端に知っている現地関係者も加担することで、「一部真実」なキャッチーでもっともらしい話になり、日本の記事では通用しないような質の海外記事が流通します。事実ならともかく、事実ではないので迷惑です。

フェイクニュースが取りざたされる昨今です。残念ですが、海外在住者から見ると、日本での海外記事には、分析や主張以前であるファクトへの真偽に疑問がつく記事を少なからず見かけます。私がこれまで検証してきた記事にも「シンガポール国立大学の学費は無料」や「日本が戦ってくれて感謝しています」というものがあります。「シンガポール国立大学の学費は無料」の記事も、東洋経済オンラインでした。
uniunichan.hatenablog.com
uniunichan.hatenablog.com

しかし残念ながら、検証記事は、そのきっかけとなった派手な記事と比べると、読まれる件数はわずかです。
シンガポール在住者が書いた今回の記事は、シンガポール関係者を驚かせています。「その国に住んでいるから」だけで記述が正しいとの根拠にならないのは、日本人が日本について書いても正しいとは限らないのと同様です。
今回の東洋経済の記事は事実誤認があります。また、花輪陽子氏の過去の他誌でのシンガポール記事でも、事実誤認を含み関係者を驚かせた記事はあります(日経DUAL)(ダイヤモンド・ザイ)。

改善には、

  • 同業者も認める信頼できる専門家を著者にする
  • それができなければ、せめて情報の出所を編集部が確認する

が有効です。花輪陽子氏のファイナンシャルプランナーとしての著述には私の専門外なのでコメントしませんが、これまでのシンガポール記事は商業媒体のライターとしての適格性を欠いているものがあります。花輪陽子氏の記事にはデータの出所記載がありません。現地の英語文献にあたっている様子も見えません。「シンガポールの老齢者の月間平均支出は、30万円」と記事に書いてあれば、「ソースは?」と赤を入れて筆者につき返すのが編集の仕事のはずですが、本当に東洋経済オンラインは校閲を行っているのか、という疑問も起きます。日本の編集部が海外事情が分からず内容を精査できないのは(百歩譲って)しょうがないとしても、せめて、記事の根拠となる出所は筆者に提出させる、でかなり改善できるはずです。
東洋経済オンラインがメディアの良心として、今回の記事への訂正・削除を行うことを、願っています。

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シンガポールの禁じられた歴史漫画「チャーリー・チャン・ホック・チャイの芸術」

"稗史"

シンガポールウォッチャーのうにうにです。シンガポールの歴史漫画として小学館の「リー・クアンユー伝記漫画」を以前紹介しました。この漫画は巻末で、リー・クアンユー自伝である「リー・クアンユー回顧録」が上げられているように、シンガポール政府の歴史見解に近い内容で漫画化されています。
uniunichan.hatenablog.com
今回、紹介するソニー・リウ (Sonny Liew) 氏が描いた「チャーリー・チャン・ホック・チャイの芸術 (The Art of Charlie Chan Hock Chye)」は、その真逆を行きます。「リー・クアンユー伝記漫画」を正史とするなら、"稗史"と呼べるものです。

"稗史"の勲章でもある、政府からの作品への否定も、見事に受けています。2015年、シンガポールのEpigram Booksというシンガポールの出版社で、印刷が終了し販売開始になる前日に、シンガポール国家芸術評議会 (NAC) が本への助成金$8,000 (約64万円) を取り消します「政府の権威や合法性を弱める可能性があるシンガポールの歴史が語られている」という理由で助成金ガイドラインに反しているというものでした。
出版社は受領済みだった$6,400を返金し、本に印刷されていたシンガポール国家芸術評議会 (NAC) のロゴをシールで貼って隠して、予定通りの2015年5月30日に販売に踏み切ります。結果として、かえって注目を浴びる"炎上商法"になり、初版の千部は数日で完売しました。シンガポールの人口が500万人強なのを考えると大ヒットです。半数の500部を売り切ったシンガポール紀伊国屋は「通常のヒット作の3倍の売れ行きだ」と述べています。この出版社での漫画は、販売を2年かけておこない、年の平均販売数が500部とのことです。その一方で、この好調な滑り出しは助成金撤回への国民の怒りなだけでなく、ソニー氏がファンを持つ著名な漫画家であったからだというのが出版社の考えでした。

日本と比べると、シンガポールは書籍市場が極めて小さいことが、出版部数から分かります。2016年9月に、「チャーリー」での収益をソニー氏は明らかにしています。それによると、総額でS$6万(約500万円)の収入です。この後も、アイズナー賞獲得効果などで継続的に売れているはずですが、2年の製作期間なので、この時点では月給換算で$2,500 (約20万円) にしかなりません。これだけの評判を得ても、米国など他国での販売収入、賞金を含めてこの金額なので、なかなかに大変です。
翌年の2016年にはPantheon Booksによりアメリカで大々的にに刊行されました。「チャーリー」は、これまでに37個もの賞を獲得しています。その中には、助成金を取り消したシンガポール国家芸術評議会 (NAC) も後援するシンガポール文学賞や、シンガポールブックアワード、アメリカの漫画界で最も権威あるアイズナー賞が含まれます。

言論の自由に、他の先進国より制限があるシンガポールで、一度は物議をかもしましたが、漫画としての作品への評価はシンガポールでもメインストリームをいっています。現地の紀伊国屋や地元書店で普通に(背後を気にすること無く)購入できます。紀伊国屋はチャーリー・チャン・ホック・チャイのノベルティまで作っています。キャンバス地のショッピングバッグや、チャーリーデザインの紀伊国屋メンバーカードです。

というわけで、シンガポールでの扱いも、政府助成金が撤回はされたものの、発売禁止でもないため、"禁書"とまでは言えません。
※写真は私が購入した「チャーリー」。300ページちょいですが、洋書らしく分厚い

なぜシンガポール政府が反発したのか

ソニー氏が作品で訴えているのは、

  • 建国以来、一党支配が続く中で、与党が行っている以外の歴史解釈の提示
  • シンガポールの歴史に「もしも」があり、他の選択肢はなかったのか。他の選択肢を選んでいればどうなったのか
  • 経済的に発展したシンガポールだが、経済成長と引き換えに国民が失ったものはあるのか
  • 強いリーダーシップスタイルをとり、言論の自由を制限するリー・クアンユー初代首相への評価

というのが私の理解です。
しかしながら、ソニー氏自身も、具体的にどの箇所がどのように「センシティブなコンテンツ」であり、助成金撤回になったかは分からないとメディアの取材で語っています。シンガポールの歴史において、事実でないことを書いたり、人を中傷をすることは、裁判で訴えられてきたことをソニー氏は認識して踏まえており、徹底した取材を行ったと、BBCのインタビューで語っています。

ソニー氏は、「自分の問題提起に対して、シンガポール国家芸術評議会 (NAC) が取り組むことを期待していたが、政府は議論を避けて押し黙ってしまい、状況は以前より悪化した」とシンガポールのウェブメディア Mothership.sg に語っています。シンガポール国家芸術評議会 (NAC) は柔軟で漫画にも助成金を与えられるように変わったりしているので、いつかは議論ができるのではないかと、ソニー氏は希望を捨てていません。
出版側も、同じ問題が起きるのを避けたがっていましたが、これもシンガポールの歴史を題材にした小説で2017年に別の助成金撤回処置が起きています。

ソニー氏が考える助成金撤回の理由

政府からは抽象的な助成金撤回理由しか言われていません。ソニー氏が考える助成金撤回となった箇所があります。もしリム・チンシオン氏が率いる政党 社会主義戦線 (Barisan Sosialis) が1963年のオペレーション・コールドストアで弾圧を受けず、力を持ったままで、シンガポールを今日にも導いていたら、という架空ストーリです(279ページ)。ここでは、シンガポールとマレーシアの統合独立は起きずに、経済成長と労働組合の穏健化に成功し、リー・クアンユー氏はカンボジアに亡命した"平行世界'です。ここで、若きリー・クアンユーに似た人物が、シンガポールで破壊行為を行い、本来の世界に戻そうとするところで、チャーリーとリム・チンシオン氏は、独立前のシンガポールに戻るという話です。
ソニー氏は次のように語っています。
「可能性の話です。リム・チンシオンだったらどうしていたか、何ができたか。当時の制約を取り除くと、PAPがしたのと同じことをしたかもしれないが、それも可能性ですよね。全く違うことをしたかもしれない」「リアリティは現在我々がもっているもので、思考実験です。平行世界で何が起きていたかを我々が知ることはできないからです」

ソニー氏とシンガポール政府の微妙な距離

ソニー氏とシンガポール政府の距離感は不思議なものがあります。
ソニー氏は、「チャーリー」出版前である2010年に、シンガポール国家芸術評議会 (NAC)のNAC Young Artist Awardを受賞しています。
「チャーリー」に対して、政府 (シンガポール国家芸術評議会 (NAC)) の芸術助成金の返還の請求を受けていますが、その後に同じシンガポール国家芸術評議会 (NAC) も後援しているシンガポール文学賞やシンガポールブックアワードで、チャーリーが受賞しています。
ソニー氏の活動拠点は、「チャーリー」の出版以前から今でも、グッドマン・アート・センターの中にあります。これは、シンガポール国家芸術評議会が設立した企業 (AHL) が運営する、シンガポールでの芸術振興のキャンパスです。

名誉あるアイズナー賞を受賞した時に、シンガポール国家芸術評議会 (NAC) は受賞作品の名前を出さずに、ソニー氏の受賞をFacebookで讃えました。作品名を出さなかったことに対して、シンガポール人からシンガポール国家芸術評議会 (NAC) に、ネットでからかいのコメントが付いています。
ソニー氏に偶然出会ったシンガポール国家芸術評議会 (NAC) の副CEOは、アイズナー賞受賞にお祝いの言葉を伝えています。この時は公式の場でなかったので副CEOは作品名を声にした、とソニー氏は冗談めかして明らかにしています。

こう見ていくと、ソニー氏は作品「チャーリー」を含めシンガポール国家芸術評議会に高く評価をされており、むしろ助成金撤回の件だけが特異点に見えます。ソニー氏は「助成金はシンガポール国家芸術評議会 (NAC) の内部者のみでなく外部者も審査に加わっている」と語っています。

海外からみた「チャーリー」: ニューヨーク・タイムズ

ニューヨーク・タイムズがソニー氏と「チャーリー」を記事にしています。

抜粋します。

  • シンガポールの歴史が語られる時は、教科書・テレビで以下の内容で強調されてきた。
    • 巨大な隣国マレーシアから新しく独立した、小さく弱い国は冷戦の最中に共産主義に囲まれていた。
    • 建国の父、リー・クアンユーが危険な左翼を打ち負かし、残念なことに多くを投獄することで、繁栄への道筋を付けた
  • この考えに反対すると、裁判無しでの投獄、高額な名誉毀損訴訟や、社会的無視を被ることになる。
  • 状況を変えつつあるのが、穏やかなアーチストと漫画のおかげだ。小作品の連続の中で、暴動と抗議の時代を描き、政府が作った神話に挑戦し、公的な歴史に漏れた匿名の人々を救い出す。
  • 作品への反応は穏やかだった。ソニー氏は今でも政府補助を受けたスタジオを享受し、政府支援のイベントに参加し、大きな国の文学賞を受賞し、国が支配するマスコミで大きく取り扱われている。ゆっくりだが、深い緩和が起きつつある。
  • ソニー氏も政府の歴史解釈に直接は挑戦していない。その代わり、代わりとなる歴史を展開し、主要登場人物が行う実験になぞらえる。
  • 左翼活動家のリム・チンシオン氏が、政府の歴史で果たす役割はほぼない。しかしソニー氏の本では、首相になりえた中心人物である。ソニー氏は、リム氏が暴力を指示したとの嫌疑も調べており、リム氏が罠にかけられたというイギリスで新しく機密解除された文書を使っている。
  • ソニー氏「政府公認のシンガポールストーリーは一部は真実だが、それ以外の歴史を除外してしまえば、正確さを欠いた全体像になる」
  • 漫画を描く調査には、批判や名誉毀損訴訟を避けるため、正確さが不可欠だった。「事実として正しい、あるいは歴史的な証拠があることを確認しなかればならない」
  • 1万5千部が印刷され、米国でも出版され、フランス語・スペイン語でも翻訳がある。(ニューヨーク・タイムズ記事は2017年7月14日)

ソニー氏略歴: マレーシア出身の"新市民"、ケンブリッジ大哲学専攻

徴兵という"新国民"への踏み絵

シンガポールの歴史漫画を書いたソニー氏ですが、生粋のシンガポール人ではありません。マレーシア生まれの中華系で、5歳でシンガポールに移住、2012年にシンガポールに帰化しています。シンガポールの歴史について、移民がこれだけの業績を持ち社会にインパクトを与えられるというのは、移民国家であるシンガポールの底力です。
移民国家シンガポールですが、外国人排斥の機運が高まりつつあります。移民導入を積極化していた与党に対して、2011年選挙で野党が善戦した理由の大きな一つです。"新国民"も排斥の対象になっています。特に、ナショナルサービス (NS) と呼ばれる徴兵に参加していない"新国民"は、国家へのフリーライダーとみなされることがあります。逆に言うと、徴兵 (NS) を経て帰化すると、自分の人生を国家に対して犠牲を払ったとして、歓迎するシンガポール人が(極右以外は)多いです。「あいつは"新国民"だろ」「いや、彼はNSにいったんだよ」「そうか、ならいいな」というやりとりです。徴兵 (NS) を通じた仲間意識です。徴兵 (NS) にいって帰化して受け入れられている代表的な著名人は、台湾出身で野党から国会議員のChen Show Mao氏です。
徴兵 (NS) が帰化人を受け入れる精神的な踏み絵、イニシエーションになっているのは興味深い現象です。逆に、シンガポールでは徴兵 (NS) は男子のみのため、女性にはそのチャンスはないとも言えます。

ソニー氏は、ジュニアカレッジ(日本の高校に相当)の級友が徴兵 (NS) にいく中で、取り残されるFOMO (fear of missing out「喪失の危機」)を感じます。入隊することも考えますが、級友に「バカなことはするな」「俺がお前だったら、そんなことはしない」と言われます。
シンガポールでは、永住権であっても、二世の男子は、徴兵 (NS) が義務です。ジュニアカレッジ時代に、ソニー氏は永住権を持っていなかったと思われます。

学歴も職歴もエリート

日本で漫画家は、現場からの叩き上げが多い印象ですが、シンガポールらしくソニー氏はエリートです。イギリスのケンブリッジ大で哲学を専攻し、その後、アメコミのDCやマーベルに漫画を書いていました。学歴、漫画家としての職歴も、受賞前からピカピカです。

表現の技巧

チャーリー・チャン・ホック・チャイって誰だ?

この本はトリッキーな表現を使っています。1938年生まれの漫画家、チャーリー・チャン・ホック・チャイの生涯を、1965年に独立したシンガポールの歴史となぞって追っていく展開なのですが、チャーリーは架空の人物なのです。チャーリーは作品中で、狂言回しの役です。ゴルゴ13と一緒で、物語の進行役に過ぎません。チャーリの視点や、チャーリーが書いたとされる漫画の紹介で、話が展開しますが、ソニー氏が訴えるシンガポールの歴史解釈の進行役です。漫画の中で、当時の作品としてボロボロの古い保管状態を思わせる漫画や、油絵、未完成作品が複写されていますが、これらは当時のものではありません。ソニー氏の作成物なのです。その中でも、当時の手塚治虫やバットマンの影響を織り込むことで、チャーリーにリアリティを出しています。私は読み終えるまで、「チャーリーは実在であり、ソニー氏は政府からの批判をかわすためにチャーリを引用しているのだ」とのせられていました。はい。

リー・クアンユーとリム・チンシン

ソニー氏の作品での訴えを私が最も感じたのは、序章です。「一つの山を二つの虎で分けることはできない」という中国のことわざ「一山不容二虎」によって、リー・クアンユー氏とリム・チンシン氏の2人を、シンガポールが抱えることができなかったことが表されています。
リム・チンシン氏は、シンガポール独立に向かう過程において、英語でエリート教育を受けたリー・クアンユー氏が、中華系からの支持を得るために、共に活動していた人物です。労働組合などに強い影響力を持っていました。リム・チンシン氏は共産主義者として1963年に検挙され、抑留中に自殺未遂を図る深刻な鬱病を患います。今後政治に関わらないとの条件で解放された1969年に、イギリスに追われるように移ります。イギリスではフルーツ売りをしました。
このリー・クアンユー氏とリム・チンシン氏について、「リー・クアンユー伝記漫画」ではリム・チンシン氏は「共産主義者だった」との解釈で描かれています。それが「チャーリー」では、左翼活動家ではあっても「共産主義者ではなかった」という視点であり、いかに人的魅力に溢れ、周りから強い支持を受けて首相候補と言われていたかが描かれています。
「チャーリー・チャン・ホック・チャイの芸術」では、この2人を軸に話が展開します。

「チャーリー・チャン・ホック・チャイの芸術」あらすじ

歴史部分を中心に抜粋します。

  • 「一つの山を二つの虎で分けることはできない」リー・クアンユーとリム・チンシン (序章)
  • 16歳でチャーリは初の刊行物の漫画を出す。英語でなく、中国語でのみ命令を聞くロボットの漫画。多言語国家のシンガポールを象徴します。 (8ページ)
  • 1954年5月13日。ジャラン・ベサール・スタジアムでの陸上競技をチャーリは見に行ったが、警官が学生を殴打していると聞き、ジョージ五世公園(現在のフォートカニングパーク)に集まる。学生は英国統治での徴兵に反対する請願を行っていました。2年後にチャーリーが書いた漫画で、ロボットとリー・クアンユーが登場するが、当然事実ではなく、事実と創作をミックスさせるストーリー展開を行っています。 (30ページ)
  • Hock Leeバスストライキ。政府見解では共産主義者の扇動者を暴力勃発の理由にしていますが、労働組合指導者は労働者福祉の改善のみを目的にしていました。目撃者証言では警察の謀略が誘発したという解釈を漫画ではとっています。 (50ページ)
  • 漫画「FORCE 136」を、1956年にチャーリーは出版。地元民は猫、日本人は犬、イギリス人は猿で表現しました。中国学校生徒の歌からキャラクターをとった。 (78ページ)
  • 太平洋戦争中のシンガポール華僑虐殺事件 (Sook Ching) が描かれています。(87ページ)
  • 日本統治下において、「おなじアジア人だ」と言って占領した日本人は、現地民を二級市民として扱います。マラヤ人民抗日軍は、抗日戦争を実施。 (91ページ)
  • 「ドラゴン」という週刊漫画を発刊。エイリアンに侵略された未来の月面世界になぞらえて、イギリスからの独立をめぐって、リー・クアンユー氏とリム・チンシオン氏を描く。 (114ページ)
  • 1958年の漫画「ブキ・チャパラン」では、シンガポール独立時の関係者は動物にたとえられて描かれる。例えば、リー・クアンユー氏はネズミジカ、リム・チンシオン氏は猫、学生や労働組合は行進するアリ。話題もたとえられ、独立請願はピクニック、治安はサンドイッチ。 (125ページ)
  • 1959年、漫画「ローチマン」を始める。ゴキブリに噛まれた男が特殊能力を手に入れ、社会の不公正と戦うという内容。政治に加えて、現実に起きている社会問題もテーマになります。英軍将校の妻の殺人事件、欧州や性風俗表の"有害"表現規制、移転がすすめられていた地区で起きた不審火など。1963年2月2日の過激派左翼一世取り締まりが行われた「オペレーションコールドストア」でリム・チンシオン氏が逮捕されたことを受け、ローチマンも話中で捕まる。リム・チンシオン氏は二度目の獄中で自殺未遂を図る深刻な鬱病をわずらい、今後は政治にかかわらないことを条件に開放され、イギリスに亡命、果物売りで生計をたてる。 (150ページ)
  • チャーリーが語る、シンガポール政府の新聞をコントロールする方法。最初にジャーナリストを逮捕する。次に、関連法を変える。同意しない人や自分の心にしたがって発言する人を追放する。最後には、安全や保身を気にする人だけが残る。 (228ページ)
  • 1965年から80年にかけてシンガポールの経済は驚異的な成長を遂げた。与党PAPの巧みな手腕があった。知識人・学生・社会・マスコミからの政府への批判は弾圧をうながした。「サバイバル」の名のもとに全てが正当化された。チャーリーもシンガポールをモチーフにした企業と、それを支配するリー・クアンユー氏をモチーフにしたボスの漫画「シンガポール・インク」を描いたが、公表しようとはしなかった。 (232ページ)
  • 1970年代の中国語新聞の経験に基き描かれている。シンガポールでの中国文化と中国教育への弾圧に直面した年代。理由の一部は、外資誘致のために政府が英語教育に焦点をあてたこともある。 (233ページ)
  • シンガポールで政治犯は、裁判なしに何十年と拘束されることがある。CHIA THYE POHは23年間、LIM HOCK SIEWは19年間、SAID ZAHARは17年間拘束された。暴力と共産主義を捨てるのを拒否したためだ。 (235ページ)
  • シンガポールの新聞は、政府批判のためのものではなく、国民が政府方針を理解することを助けるためのものだ。新聞は、容易に破棄される免許を毎年更新することが必要だ。新聞は独占大企業シンガポールプレスホールディングの傘下にあり、全ての会長は政府が指名した前政府要職者がしめている。 (236ページ)
  • 植民地時代のシンガポールは新聞活動が活発だった。1970年代においても、シンガポールヘラルド紙があった。より独立した立場だったが、即座に発禁になった。直後に、政府は外資と個人の新聞を禁じた。新聞の信憑性のために、ある程度の自由が必要なのを与党PAPは理解していたため、新聞の支配権は銀行のような主要金融機関におかれた。これによって新聞は、個人や政治の理由でなく、商業主義で運営された。 (238ページ)
  • 外資の新聞には異なる手法をとった。不快な記事には、政府意見を編集無く全文を載せることを要求した。ある出版物がシンガポールでの販売を止めることを決めると、「情報の自由な流れ」を阻害するとして政府は法律を修正し、出版社の許可無しに出版物の複製を許可した。 (241ページ)
  • 「大卒母親スキーム」(1980年)「余裕があれば、3人かそれ以上子供を持とう」(1986年)キャンペーンが、リー・クアンユー首相特有の国民構成への方向付けを示しています。1984年に、高学歴女性が多くの子供を産むように、多くの社会・財政上のインセンティブを導入した。一方、高学歴でない女性は、自発的な避妊手術がすすめられました。1950、60年代には世界中で最も高い出産率だったのが、1977年には人口維持が不可能な水準を下回った。それでも、国の遺伝の質に懸念を持ったリー・クアンユー首相の影響を、政府方針は受けていました。優生学の影響を受けていたこれらの政策は、国民の悲鳴によって早々に撤回されました。 (249ページ)
  • 1987年にオペレーションスペクトラムが行われた。カトリック教会に関した多くの社会活動家が逮捕された。政府転覆のためにマルキシズムの陰謀に参加したと非難され、テレビで告白がされました。この政府主張には、広範囲な疑義が持たれています。 (251ページ)
  • 西欧の退廃主義として男性の長髪は、政府に攻撃されました。1982年、政府は公共サービスへの問い合わせの順番に長髪男性を最後にすることを告示しています。 (253ページ)
  • 1956年の中華中学校暴動での「(福建語など方言でなく正しい)標準中国語を話そう」キャンペーンは、シンガポールでの中国語教育の変化を示します。1950年代から70年代の共産主義や中国愛国主義から過小評価されてきたのが、中華系シンガポール人が価値・文化・アイデンティティを維持するのを助けるのに後に使われました。 (255ページ)
  • 1965年の独立以降、ジョシュア(JBJ)氏は1981年に初めて野党の国会議員になった。国会議員の資格を2度無効にされ、巨額な民事訴訟で破産宣告を後にされた。ジョシュア氏は「常に法廷で訴えられた。パンツを失うまで訴えられた」と発言。 (257ページ)

反発を受けた シンガポール初の女性大統領選出

シンガポール初の女性大統領、初代大統領以来のマレー系

シンガポールの第八代大統領に、ハリマ・ヤコブ氏が2017年9月14日に就任しました。シンガポールで女性が大統領に選出されたのは史上初めてです。

ハリマ・ヤコブ氏: 略歴

ハリマ・ヤコブ氏。1954年生まれの63歳。
警備員をしていた父は、ヤコブ氏が8歳の時に亡くなります。食事を出す屋台で、朝早くから夜遅くまで働く母に、育てられました。「十歳で母の仕事を手伝い、貧困を経験した」と本人は綴っています。
シンガポール国立大学の前身であるシンガポール大学にて法学の学士、その後、シンガポール国立大学で法学の修士を取得。
シンガポール全国労働組合会議 (NTUC) にて、仕事をはじめます。弁護士です。2001年の総選挙で政界入り。地方自治開発・青少年・スポーツ省 (MCYS)、社会家族開発省 (MSF) にて大臣。与党PAPの最高機関である中央執行委員会に加わる。2013年には女性初の国会議長に就任。
国際的には、国連の国際法委員会 (ILC) の標準委員会にて議長代理を務めています。

シンガポールでの民族環境

シンガポールには主要三大民族として、中華系・マレー系・インド系があります。国民と永住者における民族比率は、中華系74.3%、マレー系13.4%、インド系9.0%、その他3.2%です。国の方針として民族平等ですが、数としては3/4を中華系が占める中華系国家です。

1965年~70年に務めた初代大統領ユソフ・ビン・イサーク氏以来の、2人目のマレー系大統領となります。現在のシンガポールでの$10札にイラストとして使われているのが、初代大統領です。

https://www.mas.gov.sg/currency/using-images-of-singapore-currency

シンガポール大統領の特徴

シンガポールの大統領は、憲法で「国の代表 (Head of State)」と定義されています。
儀礼的な活動を中心に行います。外交・文化振興・慈善活動・賞や奨学金などです。諸外国で、国政とは別に儀礼的な存在を持つのは、血統や宗教を背景にしていることが多いのですが、そうではなく民選なのがシンガポール大統領の特徴です。

数少ない権限は、経済危機時などに緊急時に利用される政府準備金への拒否権などに限定されます。それ以外の活動については、政府か大臣の助言に従って行います。例えば、大臣の任命や恩赦は形式上は大統領が実施していますが、首相や政府の助言に従います。つまり、これらには、大統領が独自の判断はできません。日本での、天皇の国事行為にたとえることができます。
また、大統領が拒否権を発動しても、議会で2/3以上の投票を得れば、拒否権を覆すことができます。

シンガポール大統領の独自権限
  • 政府準備金使用への拒否権
  • 行政と政府系企業の重要職任命への拒否権
  • 宗教調和維持法 (Maintenance of Religious Harmony Act) での制限解除への承認と拒否権
  • 治安維持法 (ISA) での拘束延長への拒否権
  • 汚職調査局 (CPIB) が扱う捜査が停止になった際の拒否権

なぜ初の女性大統領が反発されたのか

「選挙が行われなかったこと」が国民が反発した最大の理由です。「女性初」というのは目を引きますが、性別は議論の対象になっていません。
2つの大きなタイミングがありました。
まず一つ目は、マレー系のみが立候補できる内容へと、憲法と法律が変更された時。このタイミングで、野党支持者の一部から反発が起きます。ですがここでは、民族を制限することへの議論はおきましたが、国民全体として反発とまで言えるほどではありません。
決定的になった二つ目が、ヤコブ氏以外に届け出た4人全員が立候補資格を満たさないとして失格となり、ヤコブ氏の無投票当選での選出が決まったときです。これで、国民が「国の代表」への意思表示をできなかったことを理由に、反発が広範囲に広がりました。
メルトウォーター社のネットでの感情調べによると、

9月10日まで 肯定51%、否定49%
9月11日(無投票当選確定日)と12日 肯定17%、否定83%

と、それまで拮抗していた感情が、無投票当選を境に、圧倒的に否定的になっています。

大統領選挙の改訂: 民族限定での立候補

今回の大統領選挙の前に、選挙制度の変更が行わました。制度変更の骨格は2つです。

  1. 民族: ある民族から5期連続で大統領が選ばれなかった場合、次の選挙ではその民族からのみ立候補が"予約"される (該当民族から選出されない際には、他民族も含めた立候補を再度受け付ける。更にその次の大統領選挙で該当民族の優先が再度予約される)
  2. 立候補資格: 民間経験の場合、株主資本がS$5億以上の企業で、3年以上の経営トップの経験 (従来は払込資本S$1億の企業でCEOか会長。公職では従来通り、大臣・裁判長などの重要職を3年以上経験)

"民族カード"と歴史的背景

シンガポールでは、『「特定民族の国会議員はその民族の利益を代表する」という考えはよくない』という価値観があります。国会議員は各民族ではなく国民の代表であり、国民全員の利益を代表しなければならない、ということです。
この価値観は、シンガポール独立時までさかのぼることができます。イギリスからの独立時に、一時はマレーシアの州の一つとして統合・独立したシンガポールは、わずか2年でマレーシアから追放される実態で、1965年に国として独立します。
理由は、民族への考え方の違いです。マレー系の優遇を当時のマレーシア(マラヤ)首相は持っていました。シンガポールの考えである「マレーシア人のためのマレーシア」「特定の民族を優遇しない。マレーシアはマレー系や中華系やインド系のものでない」とは合わないものでした。

シンガポールには"シンガポール国民の誓い"という、小学校や国家行事で斉唱される、国民なら誰でも暗唱できるものがあります。私の訳を付けます。

我々、シンガポールの国民は、幸福・繁栄・我々の国家の発展のために、民族・言語・宗教にかかわらず、正義と公平に基づく民主社会をつくることを誓います。

「民族・言語・宗教にかかわらず」という文言がこの短い文章の中に含まれているのは、建国の経緯であり、マレーシアへの強烈なアンチテーゼです。また、シンガポールがメリトクラシー(能力主義社会)を標榜して、こだわるのも、建国直後の混乱時に民族や家柄のなりふりを構ってられるほど人材プールが豊かでなかったこともありますが、民族主義をとるマレーシアからの独立を背景としています。

建国直前の1964年に合計36人が死亡する大規模な民族紛争を経験し、シンガポールで民族の扱いは極めて繊細です。公団(HDB)では民族が孤立しないように民族比率が割り当てられ多民族での共生が必須であり、義務教育では共通語の英語に加えて生徒の母語の両方が必修です。民族のアイデンティティが重んじられながらも、国民としての民族融合が進められています。
このシンガポールで、「民族を根拠に扱いを変える」というのは要注意の事項ですが、政治では重大な局面でこれがとられています。例えば、国会議員選出のグループ選挙区 (GRC) です。1つの選挙区で勝った政党が、4人~6人の議員を総取りできる制度ですが、GRCでは1人以上はマイノリティ民族、つまり中華系以外を立候補者に含めることが必須になっています。「民族にこだわらずに、国民の代表にふさわしい人を選ぶべき」というのがポリティカル・コレクトネスだという理解は、国民には浸透していますが、現実には同一民族への共感が少なからず発生します。その現実解だ、ということです。

中華系有力候補者外し!?

しかしながら、グループ選挙区は、マイノリティ民族の確実な選出を可能にしただけでなく、小選挙区以上に与党の一人勝ちを促進する効果もあります。前回総選挙は与党の得票率が約70%になったことが示すように、国民からの支持もあるのですが、議席占有率では93%と更に強固です。グループ選挙区は現在のシンガポールの一党支配体制を支えている仕掛けの一つです。
uniunichan.hatenablog.com

民族限定となった大統領選挙も、民族是正以外の狙いがあるという疑いを、反政府支持者は持っています。それが、前回の大統領選挙に、次点で落選した中華系のタン・チェンボク氏外しではないのか、ということです。
タン・チェンボク氏は医師出身で、以前は与党PAPから国会議員としても活動していましたが、前回大統領選挙では与党PAPが推薦したトニー・タン氏に敗れています。与党出身でありながらも、大統領選挙直前にあった国会議員総選挙では野党候補にアドバイスするなど、与党PAPとは一線を画しています。大統領選での得票の差はわずかに7千票であり、一党支配体制が続いていた与党PAPを震撼させました。
今回の大統領選挙には立候補を1年以上前から表明していおり、出馬すれば有力候補とみなされていましたが、マレー系のみが立候補できる選挙となり、立候補すら不可能に終わりました。タン・チェンボク氏は、大統領選挙の憲法改正に反対し、裁判もおこしましたが、敗訴となっています。タン・チェンボク氏は現在78歳であり、次回の大統領選挙が行われる6年後の出馬は難しいとみられています。

なお、タン・チェンボク氏の裁判での主張は「ウィー・キムウィー第四代大統領を、大統領選挙で民族指定が計算される5期連続のうちの最初の期としたのは憲法違反。なぜならウィー・キムウィー大統領は直接選挙でなく議会選出だから」というテクニカルなものでした。憲法自体が改正されているため違憲を主張できないからですが、「民族指定自体の妥当性」を争点としなかった法廷戦術は興味深いものがあります。
この「直接選挙からカウントすべき」という論点は、野党が国会で追求し、政府が裁判を促したのに応じたものです。野党は大統領選挙公示日に、「どちらの大統領から数えるかは、政治決定か法への疑問か」として議会の休会動議を出し、国会で論戦を再開しています。

シンガポール大統領の厳しい被選挙資格

歴史的経緯や文化背景の違いはあるのですが、ここでは日本とシンガポールの制度を比較します。
シンガポールの大統領は、血縁や宗教は選出の背景にありません。そのために、国民からの支持が重要です。支持を証明するための選挙が行われず、(日本の選挙もそうですが)信任投票の制度もないために、意思表示ができなかった国民は反発しました。
シンガポールの大統領選挙は、「年齢など最低限の資格をクリアすれば、誰でも立候補でき、国民が選出する」という選挙ではありません。日本国憲法に以下の条文があります。

第四十四条 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。

シンガポールで立候補資格である、公職の最重要職経験や、民間大企業の代表経験は、日本国憲法であれば「社会的身分」に抵触すると考えられます。今回の大統領選挙では、申請者のうちの民間出身の2人が資本金要件を満たさず立候補を認められなかったのが、無投票当選になった理由です。残り2人の失格理由は、マレー系の証明書類の未提出です。
選挙権も被選挙権も、資格で足切りをするのではなく、年齢や刑法犯など最低限を満たせば、候補者自身の適正を全てひっくるめて国民が判断するのが、日本での民主主義です。
なお、シンガポールでも国政に権限がある国会議員では、被選挙権は厳しくないです。被選挙権がないのは、破産者、1年以上の禁固刑かS$2千以上の罰金を受けた人、重国籍者など、限定的です。

抗議集会

選挙が行われなかったことを受けて、野党支持者を中心に抗議集会が開かれました。特にこれに着目して「集会の自由が限定されているシンガポールでは珍しい抗議集会が開催されるほどの反発」という説明をするメディアがありましたが、妥当とはいえません。
ホンリョン公園にあるスピーカーズコーナー限定ですが、シンガポールでも、政治目的を含め集会を合法的に開催できます。最近であれば、水道料金の値上げで実施するぐらい、反政府側の定番アピール活動にすらなっています。大統領選への抗議参加者も、主催者発表で2千人、最大手ですが政府の影響下にあるストレイトタイムズ紙で数百人レベルであり、コアな反政府活動家しか、集まりませんでした。
また、抗議集会でも大統領選挙制度への抗議であって、選出のヤコブ氏への抗議ではありません。
大統領選挙への反発はありますが、これがただちに社会変革につながる段階ではない、ということです。

#NotMyPresident ?

ヤフーシンガポールストレイトタイムズ紙では、 #NotMyPresident というタグがSNSで使われている、とも報道しています。米国トランプ大統領選出の反発で使われたものが、シンガポールでも使われているということです。ところが、ヤフーシンガポールで取り上げたツイートでも、4件1件のリツイートしかありません。シンガポールでツイッターはそれほど人気では無いことを考慮しても、#NotMyPresident に広範な支持があるとは考えられません。

"明るい北朝鮮"を超えて

シンガポールを揶揄する"明るい北朝鮮"という表現があります。今回の大統領選挙を知ると「シンガポールは"明るい北朝鮮"だから」とレッテルを貼って、ドヤって終わる人がいます。
そもそも、「明るい北朝鮮"だから"」もなにも、シンガポールを"明るい北朝鮮"と呼ぶのは、日本でしか通じないガラパゴス表現です。「ブライト ノースコリア」とわざわざ英語での話の時にも持ち出す日本人が時々いますが、シンガポール人も知らない表現なので、理解されません。シンガポールは独立後一貫して自由主義陣営なので、シンガポールでも日本以外の他国でも、通じなくて当然です。

自国民も認識し、国際的にも知られている、シンガポールへの揶揄は"リトル・レッドドット"です。インドネシアのバハルディン大統領(当時)が、「(インドネシアと比べて)赤い点にすぎない小国」の意味合いで使い、それを受けてシンガポールのゴーチョクトン首相(当時)がアジア通貨危機を受けて苦しむインドネシアに「地図ではリトル・レッドドットの小国だが、できるかぎりインドネシアを助けよう」と発言したことで、「俺たちはリトル・レッドドットの小国なのにうまくやってるじゃねぇか」とポジティブな意味に変わってしまいました。
日本だと、「世界で最も成功した社会主義国」です。どんな国にでも揶揄する表現があります。

シンガポールは独立から一党支配が続き、国境なき記者団の世界報道自由ランキングで154位になるなど言論の自由への制限があるのは確かです。ですが、それは多民族国家でヘイトスピーチが引き起こす民族対立を抑止し、なにより選挙で国民が信任した結果でもあります。
完全な国、天国はこの世にありません。シンガポールも、経済成長は著しく治安は良好ですが、言論の自由に制約があります。米国も、自由と民主主義の擁護者ですが、銃社会と重い医療費負担に苦しんでいます。日本は深い歴史がおりなす豊かな文化・食事がありますが、過重労働と経済停滞から抜け出せません。お互いの国の違いを知って、認めあうことが大事です。
他国・他文化・他民族を理解する際に、レッテルから入るのは、最初期の段階ではとっかかりとしてやむを得ないかもしれません。ですが、レッテルに頼らずに、ご自身の言葉で表現できるようになることが、他国理解の第一歩です。レッテルを超えて、ご自身の感想・意見・理解を持たれる人が増えることを、シンガポール在住者として願っております。

時系列

最後に、今回の大統領選出での時系列です。
2016年

9月4日 リー・シェンロン首相がTV版部味で大統領選挙改憲提案について少数民族への大統領職予約権を示唆する
9月7日 憲法委員会が民選大統領制度の改正案を政府に提出。変更は、立候補資格として民間出身者は株主資本がS$1億以上の企業で会長かCEO経験者だったのが、改正案ではS$5億以上の株主資本の企業で執行権を持つ首脳経験者。3つの主要民族グループから5期30年間に大統領が誕生しなかった民族があれば、次の大統領選挙ではその民族グループからのみ立候補を認める。つまりマレー系のみが次回大統領選挙で立候補できる。

2017年

6月1日 シンガポール最有力紙ストレートタイムズが有力候補としてヤコブ氏の名前を憶測で出す
6月2日 ネットメディアが、ヤコブ氏の父がインド系、母がマレー系であるため「ヤコブ氏はマレー系か」「マレー系の定義とは」という疑問をなげかける
8月6日 ヤコブ国会議長が大統領選挙への立候補意志を表明。国会議長・国会議員を辞職し、与党PAPからも離党する。
8月7日 リー・シェンロン首相が、ヤコブ氏の公職と党からの退任を認める書面の中で、これまでの功績を称え、「当選すれば、尊厳を大統領職にもたらすと確信している」と事実上の推薦を公表する。
9月4日 選挙管理委員会は5人から選挙資格証明申請を受け取る。うち2人はマレー系との証明書がなく失格となる。
9月11日 選挙管理委員会は1人のみが有資格者として立候補を認める。ヤコブ氏の無投票当選が決まる。


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