今日もシンガポールまみれ

日本のあっち、シンガポールのこっち

井上和彦氏「日本が戦ってくれて感謝しています」をシンガポールで検証する

ファクトチェックです。
産経などで時折取り上げられている軍事ジャーナリストに井上和彦氏という方がいます。「日本が戦ってくれて感謝しています」という太平洋戦争に関する彼のネットや書籍での主張が妥当か、私が居住するシンガポールに関する記述を検証します。検証基準は下記です。

  1. 記述の事象は正確か (ファクトチェック)
  2. 記述の全体の位置づけが妥当か (例外や少数事象には注釈をつけるなど、一般的であるような誤解を避けているか)

記述の事象が正確かどうかや全体の位置づけの評価は、シンガポール教科書を含むシンガポール政府の記述を根拠とします。シンガポール政府の史実認識や解釈に異議があるかもしれませんが、今回の記事の視点は「シンガポール"が"、日本が戦ったことに感謝しているか」だからです。
井上和彦氏による、以下の3つの記事のシンガポールの記述を評価対象にします。

シンガポールにある山下奉文将軍の像の扱い

山下将軍の等身大の像が、シンガポールのセントーサ島の博物館にある。“侵略”されたはずのシンガポールにあるのです。 (産経: 井上和彦氏)

シンガポールにはマレー進攻作戦を指揮した日本陸軍の山下奉文(ともゆき)大将の銅像があることを紹介し、「日本はアジア独立のために戦ってくれた」と高く評価されていると強調した。 (産経 名古屋「正論」懇話会: 井上和彦氏)

山下奉文将軍は、英軍のパーシバル将軍にこう降伏を迫った。気迫がひしと伝わってくる言葉だ。シンガポール島の南、セントーサ島にあるろう人形館には、この名シーンを再現した見事な人形がある。 (夕刊フジ: 井上和彦氏)

井上和彦氏はシンガポールに山下泰文将軍の像があることを根拠に、シンガポールで山下泰文将軍が肯定的に評価されているとする文章を書いています。これが妥当かを検証します。

旧フォード工場記念館に山下奉文将軍等身大の像があり、セントーサ島のシロソ砦の博物館には山下将軍の蝋人形が確かにあります。
旧フォード工場記念館の像は、銅像ではなく、エポキシ樹脂製です。
セントーサ島の山下将軍人形が置かれているのは、ろう人形館ではなく、シロソ砦という歴史記念館の Surrender Chamber (降伏の部屋) にあります。

旧フォード工場記念館

篠崎護 氏

旧フォード工場記念館も、シロソ砦も、シンガポール政府が運営する太平洋戦争の記念博物館です。
旧フォード工場記念館では、山下奉文将軍の像は、英国パーシバル司令官の銅像と並んで置かれています。井上和彦氏は『“侵略”されたはずのシンガポールにあるのです』と、像はシンガポールが山下奉文将軍に敬意を払うためのものであるかのように印象づける文章にしていますが、そうではありません。戦争当事者の日本軍と英国軍を並列に配置した歴史展示なのが実態です。

※旧フォード工場記念館にて、左がパーシバル司令官、右が山下奉文将軍。写真は筆者撮影
旧フォード工場記念館では、占領時の日本軍の記録が数多く展示されています。それにはさらし首、縛られた遺体と思われる写真を含みます。山下奉文将軍が敬意を払われているのであれば、日本軍の蛮行と並列に展示されているのは不自然です。むしろ、日本統治時代の圧政についての展示がはるかに豊富です。
※写真は筆者撮影
※写真は筆者撮影

その一方で、旧フォード工場記念館には、求めてきた人全てに通行証を発行した篠崎護氏の展示もあります。篠崎護氏についてはシンガポール国立図書館でも詳しく紹介しています。
明治大学卒業。戦前のシンガポールで、日本の新聞に最新情報を提供しており、後には日本軍にシンガポールの状況を報告しています。シンガポールの公安は篠崎護氏を裁判にかけて有罪とし、チャンギ刑務所に3年半の収監となります。日本軍占領後、篠崎護氏は開放され、警備司令部の嘱託になる。警備司令部特外高の名のもとに発行した保護証を、最終的には総計3万部発行し、人の命を救っています。日本の公式見解では5千人殺害、シンガポールの見解では数万人が殺害されたとするシンガポール華僑虐殺事件でも、2千人の人を救い出しています。
日本の蛮行と善行の両方を記載しているのがシンガポールです。

※写真は筆者撮影

シロソ砦

シロソ砦でも、シンガポールはフェアな文脈を作ろうととしています。井上和彦氏は『山下奉文将軍は、英軍のパーシバル将軍にこう降伏を迫った』『この名シーンを再現した見事な人形がある』と記述していますが、1942年の日本軍勝利のろう人形の後には、1945年の日本軍降伏のろう人形も展示することで、歴史記念館としてのバランスをとっています。
関係者に都合が良いことも悪いことも含めて、当時の妥当と思われる優先順位で展示しようとしているのが、シンガポールです。
※シロソ砦の展示。旧フォード工場で、イギリス軍が日本軍に降伏する場面を再現。写真は筆者撮影
※写真は筆者撮影
※シロソ砦の展示。旧市役所で、日本軍が降伏する場面を再現。写真は筆者撮影
シロソ砦の写真はこちらでも確認可能です。

ブキバド記念碑

昭南忠霊塔

連合軍記念碑

山下将軍は日本軍戦没者慰霊碑を建てただけでなく、敵兵を弔うために全高約13メートルともいわれる巨大な十字架を建てたが、こうしたことはかつてシンガポールの中学校の歴史教科書にも載っていたのです。 (産経: 井上和彦氏)

シンガポール中西部のブキバトックの丘陵には、日本軍がシンガポール占領後に建てた「昭南忠霊塔」の石段が残されている。散華した日本軍将兵を顕彰したものだが、山下将軍はこの忠魂塔の裏側に、高さ約3メートルの大きな十字架を建て、英軍兵士の霊も弔った。
なんとこうした史実が、シンガポールの中学2年生の教科書『現代シンガポールの社会経済史』(1985年版)で紹介 (夕刊フジ: 井上和彦氏)

30年も前のシンガポール教科書からの引用

井上和彦氏の文章を読んで違和感を覚えるはずです。なぜ1985年という30年も前の教科書を今でも引き合いにだしているのか、ということです。この『現代シンガポールの社会経済史』という日本語訳で紹介している本は、英文での原題は"Social and economic history of modern Singapore. 2"で、「シンガポールが太平洋戦争をどう捉えているか」について日本で度々引用されている書籍です。井上和彦氏が書籍の存在に、脚光をあてた最初の日本人ではありません。
例えば『慰霊を通じ恩讐を超えていこう (下) ~敵の戦歿者を慰霊した昭和の日本人~』 という名越二荒之助氏のインターネットで読める記述もありますし、下記のような本もあります。
アマゾン: 外国の教科書の中の日本と日本人―日本の高校生がシンガポールの中学教科書を翻訳して再発見した日本近現代史

シンガポールは教科書制度がある国です。
今回の書籍は教科書指定を受けており、"Social and economic history of modern Singapore. 2"は確かにシンガポールの教科書です。中学校低学年向けの教科書である記述が序文 (Preface) にあります。

※写真は"Social and economic history of modern Singapore. 2"より筆者撮影

シンガポール教科書にブキバト記念碑の記述無し

井上和彦氏の文章の事実確認をします。
『シンガポールの中学2年生の教科書『現代シンガポールの社会経済史』(1985年版)で紹介』とありますが、昭南忠霊塔や連合軍記念碑についての記述は、該当の教科書に見当たりません。井上和彦氏は、教科書の原文を参照していないと思われます。
名越二荒之助氏の記述にもある「オーストラリア軍との戦争後に、日本軍が墓地に十字架で弔った」との記述と、ブキバト記念碑を、井上和彦氏は混同をしている可能性があります。

そのため、シンガポール教科書からの検証はあきらめて、シンガポール政府文書から昭南忠霊塔や連合軍記念碑の文章を紹介します。
(注) 本記事での訳は、特記がなければ、全て筆者によります。英語原文は本記事の最後に参考資料として掲載しています。

ブキバドの丘は、昭南忠霊塔と連合軍記念碑がかつてあった場所だ。昭南忠霊塔はシンガポール攻略戦闘での日本人戦死者を弔う記念碑だ。昭南忠霊塔を建てるために、サイム通りの捕虜収容所からの500名の英国と豪州の戦争捕虜を日本人は使った。連合国軍捕虜は、自分達の戦死者も祀りたいと頼んだ。日本人は頼みを聞き入れ、昭南忠霊塔の後ろに小さめの捕虜の記念碑が建てられた。
昭南忠霊塔は、12メートルの高さの木製で、真鍮の円錐で頭部が覆われており、そこに「忠霊塔」の文字があった。忠霊塔とは「倒れた戦士の犠牲」を意味する。その裏には、ブキティマの戦いで死んだ人の遺灰を収容する小さな小屋があった。英国記念碑は3メートルの高さの十字架であり、英国軍戦死者の遺灰のいくつかが置かれた。
両方の記念碑は1942年12月8日の同じ日に公開になった。この日は、太平洋戦争開始と東南アジア「開放」の一周年記念だった。日本人の記念碑が最初に公開され、続いて日本軍への感謝のスピーチと共に英国司令官が英国記念碑を公開した。公開の日に特別式典が催され、燃え盛るたいまつで照らされた階段から日本人の遺灰が持ち込まれ、昭南忠霊塔に置かれた。
日本が降伏したことで、シンガポールにいた日本軍は昭南忠霊塔を破壊し、連合軍の十字架も撤去した。シンガポールに戻ってきた英国軍は、コンクリートの基礎を吹き飛ばした。日本兵の遺灰は、Chuan Hoe通りにあるシンガポール日本人墓地公園に移された。以前、記念碑があった場所には、現在、テレビ塔が建っている。現存するものは、記念碑があった場所へと続く階段のみである。

『山下将軍は日本軍戦没者慰霊碑を建てただけでなく、敵兵を弔うために全高約13メートルともいわれる巨大な十字架を建てた』という井上和彦氏の記述は、シンガポール政府の文章と食い違っています。
昭南忠霊塔を建てたのは、日本軍ではなく連合軍捕虜です。また、連合国記念碑は、連合軍捕虜が希望して連合軍捕虜が建てたものです。捕虜に建設許可を与えたとはいえ、連合軍記念碑を日本軍の功績のように評価するのは、不適切でしょう。連合軍を弔ったのは、日本軍でなく、連合軍自身です。
また、12メートルの記念碑は日本軍のための昭南忠霊塔であり、連合軍への記念碑である十字架は3メートルです。

戦闘での日本軍と捕虜への扱い

マレー半島南部のゲマスにおける戦闘について、以下のように記している。
 「オーストラリア兵の勇気は、日本兵、特に彼らの指導者によって称賛された。敬意の証しとして、彼らはジェマールアンのはずれの丘の斜面の、オーストラリア兵200人の大規模な墓の上に、一本の巨大な木製の十字架をたてることを命じた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』という言葉が書かれていた」
 まさに武士道精神である。 (夕刊フジ: 井上和彦氏)

上記の井上和彦氏の記事は、名越二荒之助氏のシンガポール教科書の訳と同一です。シンガポール教科書の該当部分を訳します。

  • 12.4 ジョホールの戦い

重要な橋を吹き飛ばした後に、オーストラリア兵はシンガポールに撤退しているところだった。オーストラリア軍がシェマルアンの街に入った時に、多くの半裸の男達があちこち動き回っているのをみて驚いた。これらの男がジョホールの東岸から上陸した日本軍兵士だと、オーストラリア軍は知らなかったのだ。
完全武装したオーストラリア軍が戦闘準備ができていることを日本軍は知っており、その半裸の"村民"が実は自分たちの敵だとオーストラリア軍はすぐに知ることになった。それは死闘だった。オーストラリア軍の200人の全員が全滅した。日本軍は千名が死亡か負傷したと言われている。オーストラリア軍の勇猛さは日本軍とりわけ現地司令官に賞賛された。敬意の証として、シェマルアンの街の措置側にある丘の側に200名のオーストラリア人の集団墓地の上に、巨大な木製の十字架を配置するように命じた。「我々の勇猛な敵、オーストラリア人へ」とという言葉が十字架に描かれた。

井上和彦氏の記事は問題ないのですが、名越二荒之助氏の『半裸の村民たちは(日本軍に味方して)、オーストラリア軍に敵対してくる事が判った』は誤訳です。半裸の村民は日本軍そのものとシンガポール教科書で記述されています。日中戦争で中国の便衣兵(民間人に偽装した軍人)が日本軍を悩ませましたが、日本軍も軍服を着用せず民間人の偽装を疑われる行為をしていたという内容がシンガポール教科書です。

ではここで、日本軍の捕虜への扱いを検討してみます。該当する記述がシンガポール教科書『現代シンガポールの社会経済史』(1985年版)にあるので、訳します。

  • 13.2 イギリス人の収監

十分な数の日本人役人がやってくるまで、シンガポールの都市を運営しており日本人の役に立つイギリス人官僚は、同じ役職でいることを許された。残りのイギリス人民間人は投獄された。海峡入植地のイギリス人知事に導かれて、イギリス人男性、女性、子どもは、チャンギ刑務所まで行進しなければならなかった。イギリス人とオーストラリア人の兵士は、兵隊のための刑務所収容所に入れられ、日本人を助けるのを拒否したインド人兵士も同様だった。これら全員は3年半の間、刑務所に入れられた。多くは刑務所で死んだが、そこが混みすぎていて、不潔で、捕虜が健康であるために十分な食料と医薬品が無かったためである。多くの捕虜はタイとビルマの鉄道建設に送られた。これは「死の鉄道」として知られていた。タイとビルマのジャングルの中で病気と飢えで何千もの捕虜が死んでいったからである。


これらをあわせて読むと「日本軍は戦場で敵軍に敬意を払うこともあったが、捕虜への処遇は一般的に冷酷であった」と解釈されます。捕虜以外も含めた、シンガポールの全体的な統治政策としては、残忍なものとして記述されています。シンガポール教科書『現代シンガポールの社会経済史』(1985年版)の章の題からも分かります。
13章 日本統治時代のシンガポール
13.1 イギリス降伏後のシンガポール
13.2 イギリス人の収監
13.3 中華系への処罰
13.4 5千万ドルの"贈り物"
13.5 日本人が他の民族をどのように扱ったか
13.6 憲兵隊の恐怖
13.7 食料供給の不足と闇市
13.8 人々の自由の制限
13.9 反日本グループ
13.10 日本の征服と占領からの教訓

よって、井上和彦氏が"武士道精神"と表現した箇所だけを取り上げるのは、一方的な記述にならないようにというシンガポール教科書の編集方針を歪める行為と言えます。

日本の領土的野心への有無を、シンガポールはどう解釈しているか

島の博物館には、日本が戦争に突入した経緯として「米国と英国、中国、オランダによる『ABCD包囲網』で、石油や鉄などを禁輸され、戦うか降伏するかを迫られた」と、大きな展示パネルで紹介されている。日本の領土的野心を見事に否定しているから驚きだ。 (夕刊フジ: 井上和彦氏)

『島の博物館』と書いているので、シロソ砦の展示と思われますが、該当の記述は見当たりません。何を指しているかご存知でしたら、教えてください。現地確認します。なお、下記リンクでシロソ砦の展示は網羅されています。
2012年1月シンガポール⑧~セントーサ島(シロソ砦編)~
ここは歴史解釈よりロジックの問題ですが、仮に「ABCD包囲網が開戦に踏み切った理由」だったとしても、それをもって領土的野心の有無を断言できません。なぜなら、ABCD包囲網以外にも複数の要因があり、その一つが領土的野心である可能性があるからです。また「ABCD包囲網に至った原因が領土的野心」である可能性もあるからです。

それではここで、シンガポールが日本の領土的野心をどう解釈しているかを、シンガポールの教科書『現代シンガポールの社会経済史』(1985年版)の記述を見てみます。
第11章が「第2次世界大戦と日本の東南アジアへの征服 (World War II and the Japanese Conquest of Southeast Asia)」というタイトルです。「征服」の原文には conquest が使われています。

  • 11.3 アジアと太平洋での戦争

ドイツ人がヨーロッパの支配者 (masters) になろうとしたのと同様に、日本人もアジアと太平洋の支配者になることを望んだ。これには、アジアと環太平洋諸島の国々を征服することによってだ。第10章で、日本の勃興と日本の中国への侵略 (invasion) を記載した。日本が中国を征服しようとした理由の一部には、日本にある工場のために中国から石炭や鉄のような原材料の獲得を望んでいたからだ。日本は中国の広大な取引をもコントロールしようとした。しかしながら、日中戦争に勝利することはとても困難であることが判明していた。日本は中国の全ては征服できなかった。中国が降伏を拒絶し、日本と戦い続けるにつれ、日中戦争はだらだらと長引いた。
日本は次に東南アジアと太平洋におけるある領域を侵攻 (invade) することを決めた。その時までに、ヨーロッパにおける戦争は暫くの間続いていた。ドイツとイタリアと友好的関係であった日本は、1940年9月にその二ヶ国との条約に調印した。このようにして、日本は枢軸国側に入り、これらの好戦的な国々の仲間になった。フランスは既にドイツに降伏してたので、日本はフランス領インドシナにあるベトナムの一部を占領 (occupy) しに動き出していた。マラヤ、ビルマ、イギリスとオランダに属するオランダ領東インドに日本軍は迫っていた。

  • 11.4 なぜ日本は東南アジアを征服 (conquer) したがったのか

米国は日本が中国での戦争を止めて、インドシナから日本は軍隊を撤退させることを望んでいた。日本は拒否した。結果として、まずはアメリカ、次いでイギリスとオランダは、石油、鉄、ゴム、スズと他の戦争関連物資を日本に売ることを拒否した。これら原料が遮断した時に、日本はそれらを得る他の方法を探さなければならなかった。石油、ゴム、スズとその他の戦争関連原料の供給が豊富な東南アジアを征服 (conquer) することを日本は決めたのだ。
ヨーロッパでの戦争によって、東南アジアにあるヨーロッパの宗主国が力を失っていることを、日本は知っていた。フランスとオランダはドイツの手中に落ちていた。その国々は、フランス領インドシナとオランダ領東インドを日本の攻撃から防衛はできなかった。イギリスはドイツとイタリアと生死をかけて戦っており、東南アジアの自国領土を守るために強固な守りをしくことはできなかった。それゆえ、これらの領土をたやすく征服 (conquer) できると信じていた。

  • 11.5 なぜ日本は米国との戦争に入ったのか

しかしながら、フィリピンは米国支配下にあった。海軍、空軍、陸軍で米国は、日本が東南アジアに入ってくるのを止めることができた。もし日本が東南アジアを征服 (conquer) するなら、日本は米国と戦争をしなければならないと、日本政府は決断した。米国はヨーロッパとの戦争に入っておらず、戦争への準備には十分ではなかった。アメリカ人はヨーロッパの戦争に加わることに反対していた。戦争に入るということは、他国の人間のために自国のアメリカ人の若者を送り出すことを意味していたからだ。日本の指導者は、これを知っていたし、アメリカ人は安楽な生活に慣れており、日本人兵のような良い兵隊にはなれないと考える者もいた。
それゆえ日本はフィリピンにある米国空軍基地を攻撃し、ハワイ諸島(太平洋真ん中にある一群の島々)のパールハーバーにある米国艦隊を破壊することを決めた。アメリカ人はパールハーバーに海軍基地を持っていた。米国軍艦が燃料と弾薬を補給され、修理されるのがここだったのだ。フィリピンと太平洋のアメリカの島々の防衛を助けるために、米国軍艦を派遣することができる基地でもあった。パールハーバーにあるアメリカ軍基地と艦隊を日本軍が破壊できれば、アメリカ人はフィリピンを防衛できないと日本は気づいたのだ。<略>

  • 要約 2. アジアでの戦争

(a) 1937年に、日本は中国に進行したが、全土を征服することはできなかった。
(b) 東南アジアからの軍需物資を手に入れるために、日本は東南アジアを征服することを望んだ。
(c) 1941年12月7日、パールハーバーに日本人は奇襲をかけた。その時、米国は同盟国側として第二次世界大戦に参加した。
(d) 日本軍は東南アジアに浸透していった。6ヶ月以内に、マラヤ、シンガポール、フィリピン、オランダ領東インドとビルマを制圧した。

最後の要約に書かれているように、太平洋戦争の目的は「東南アジアからの軍需物資の獲得」と記されています。また、シンガポール教科書には大東亜共栄圏や八紘一宇には触れていません。これらの解釈に異議があるかもしれませんが、これがシンガポール教科書の記述です。

日本統治下での軍事活動: インド国民軍、マラヤ人民抗日軍、136部隊

「Indian National Army」(インド国民軍)の記念碑には、こう刻まれている。
 「インド国民軍(INA)の『無名戦士』にささげる記念碑が1945年ここに建立された。INAは42年、英国からインドを解放するため、日本軍の支援を受けてシンガポールで創設された。この記念碑はシンガポールに帰還した英軍によって取り壊された」
日本軍とインド国民軍による“インド解放戦争”はシンガポールから始まったのだ。 (夕刊フジ: 井上和彦氏)

インド国民軍記念碑は、下記で写真を確認できます。
tripadvisor: Indian National Army Monument
井上和彦氏のインド国民軍記念碑の説明は、シンガポール政府が記念碑に付けている日本語訳で、指摘通りです。
では次に、インド国民軍がシンガポールでどういう文脈で理解されているかを見てみます。シロソ砦では、日本統治下のシンガポールでの軍事活動に以下の3つが挙げられています。

  • インド国民軍 (INA)
  • マラヤ人民抗日軍 (MPAJA)
  • 136部隊
インド国民軍 (INA)

インド国民軍 (Indian National Army) は、1942年の太平洋戦争の最中に、日本の支援を受けて設置された軍隊です。シンガポールでのイギリス軍の降伏後に、負けた東南アジアのイギリス軍に所属していたインド人兵に、インド解放を目的とするインド国民軍に加わることを、日本は説得し、時には無理強いして参加させています。

※写真はシロソ砦にて筆者撮影
インド国民軍はイギリスからのインド解放の先駆けとなったとして、インド国内で敬意を払われており、インドのモディ首相も2015年のシンガポール来訪時に、インド国民軍記念碑を訪れています。
シンガポールにおいては、他国の解放運動のため、インド国民軍への肯定的あるいは否定的な評価はありません。

マラヤ人民抗日軍 (MPAJA)

マラヤ人民抗日軍は、マラヤのレジスタンス兵のグループであり、日本占領下のマラヤで戦うように訓練されていました。1941年5月、敵支配地域での破壊活動を行うために、シンガポールに作戦の本部をイギリスは設立します。1943年までにマラヤ共産党が率いる抵抗運動が盛んになります。マラヤ人民抗日軍は136部隊と接触をして、同部隊諜報部員とともに任務を遂行しました。マラヤ人民抗日軍メンバーがイギリスの東南アジア司令官の部下になることを条件に、19432年12月に協定が結ばれ、軍事訓練と補給を受けています。マラヤ人民抗日軍はマラヤの主要な州を拠点にする8連隊およそ1万の兵士を有しました。

※写真はシロソ砦にて筆者撮影

136部隊

136部隊は、イギリスによる、第二次世界大戦での各地での特殊工作活動の支部への総称です。敵に占領された領土でのレジスタンス活動を支援する組織です。日本占領下のマラヤへの反抗を支援するために、地元ゲリラを採用し訓練し、136部隊員は情報収集し地下スパイネットワークを作ります。
1943年に5月にインドのカルカッタから潜水艦でマラヤに隠密に上陸した136部隊は、9月にマラヤ人民抗日軍と接触します。
この136部隊からシンガポールの英雄が生まれます。林謀盛(リム・ボー・セン)です。1944年5月までに、情報収集活動のために合法ビジネスをよそおった重要な地下ネットワークを136部隊は確立します。しかし、仲間の失態で日本軍に捉えられた林謀盛は、憲兵隊に顔が変形するほど拷問を受けるものの、仲間について口を割らずに、35歳で亡くなります。

※136部隊。写真はシロソ砦にて筆者撮影
※林謀盛。写真はシロソ砦にて筆者撮影

太平洋戦争と日本統治に対する、中華系と、マレー系やインド系との温度差

太平洋戦争と日本統治時代には、シンガポール在住の中華系と、マレー系やインド系とで感情に温度差があります。シンガポール華僑虐殺事件の対象になった中華系は最も印象が悪く、マレー系とインド系では中華系ほどの怨念は抱いていないことが多いです。
中華系は、当時は中国からの移民一世や二世が中心で、海外に住んでいても中国に強い共感を持っていました。そこから、日中戦争では資金提供などの支援を行っていました。これが、日本軍がシンガポール華僑虐殺事件を引き起こした大きな理由になっています。他にも、5千万ドルの献金を日本軍から中華系コミュニティは命じられ、2,900万ドルしか用意できなかったため、残額は日本の銀行から借金をする苦難も受けています。 (参照:『現代シンガポールの社会経済史』(1985年版) 13.3 中華系への処罰、13.4 5千万ドルの"贈り物")
その一方、中華系と比べると、マレー系とインド系へは、日本軍は多少良い待遇にしていました。日本軍は、マレー系とインド系を日本軍の敵とはみなしておらず、統治に彼らの力が必要だったからです。多数はしませんでしたが、中には日本軍に自発的に志願するマレー系もいました。インド系には日本軍が支援してイギリスからの独立を目指すインド国民軍への参加が促されました。しかし、インド系兵士の大半(主としてシーク教徒)と、イギリス軍のグルカ部隊は、イギリスへの忠誠から、インド国民軍への参加を拒否しています。拒否したものは、投獄され、拷問を受けました。 (参照:『現代シンガポールの社会経済史』(1985年版) 13.5 日本人が他の民族をどのように扱ったか)

このことから、マレー系とインド系より、中華系の方が太平洋戦争と日本統治時代には、批判的です。だからといって、マレー系とインド系も、戦闘では犠牲を受け、日本統治下では圧政と経済的困窮を受けているため、怨念は中華系ほどではない、というあくまで相対的なものです。現在では、中華系も移民四世以降が中心になってきおり、「自分は中国人でなくシンガポール人だ」というアイデンティティが育っていることから、中国とは一線をおいた考え方をしています。むしろ、中国からの過剰な移民流入で、シンガポールの中国出身中国人は敬遠されることが多いです。
uniunichan.hatenablog.com

シンガポールの戦跡

「欧米列強の植民地支配からアジアを開放する」という、大東亜戦争の意義を明確に説明している。
 自虐史観に洗脳された日本人が目を覚ますためにも、シンガポールを訪れていただきたい。 (夕刊フジ: 井上和彦氏)

シンガポールで戦争に関する国が管理している記念碑は、シンガポール国立公文書館がまとめています。そのうち、太平洋戦争に関するものを抜き出して、要約を付けます。

  • シンガポール国立公文書館: Roots: PLACES: War

※戦跡記念碑には英語・中国語・マレー語・タミル語・日本語で解説が付けられています。一部は写真を右記リンクで確認できます。 シンガポール 戦跡記念碑 (全20基) めぐり

  1. チャンギ刑務所の門壁と小塔 (Changi Prison Gate Wall and Turrets): 捕虜収容所。
  2. 市民戦没者記念碑 (Civilian War Memorial): 日本軍がおこしたシンガポール華僑虐殺事件の記念碑。
  3. セレター空港 (Seletar Airfield): 空軍基地。
  4. シンガポールへの退却 (Withdrawal to Singapore): シンガポールとジョホールをつなぐコーズウェイ(土手道)の戦闘。
  5. 136部隊の歴史的標識、林謀盛(リム・ボー・セン)の墓標 (Force 136 Historic Marker | Lim Bo Seng's Burial Site): 特殊工作活動を行った136部隊。
  6. フォートカニング司令部 (Fort Canning Command Centre): 司令部の一つ。イギリス軍が軍事作戦を計画するのに使った。日本軍占領後は河村参郎将軍の司令部になった。
  7. 特殊部隊員死刑現場 (Execution of Captured Rimau Commandos Historic Marker): 特殊部隊Z所属のイギリス人とオーストラリア人の23人が日本軍占領中のシンガポールを奇襲し、3隻の商船を破壊。日本軍は10人を捕え裁判で死刑、残りを逃走中に殺害した。
  8. ケッペル湾 (Keppel Harbour): 連合軍が奇襲で日本の船を沈めた。太平洋戦争で最も成功した奇襲。
  9. エスプラネード公園記念碑 (Esplanade Park Memorials): 林謀盛(リム・ボー・セン)記念碑: 林謀盛は、採用したレジスタンスグループを、136部隊に改変した。憲兵隊に捕えられて拷問を受けたが、仲間について口を割らずに、拷問がもとで亡くなった。
  10. 旧司令部公邸 (Former Command House): マラヤ司令長官公邸。日本軍との戦争時には、地下壕があるフォートカニングが使われた。占領後、日本軍兵舎になった。周辺のキャンプには捕虜が収容された。
  11. 旧フォード工場記念館 (Former Ford Factory): 当初は東南アジア初のフォード社組立自動車工場。戦時中は軍用自動車と飛行機の工場として使われており、占領後山下将軍が接収し軍司令部にした。1942年2月15日、イギリス軍パーシバル司令官は山下将軍と降伏のためフォード工場で会談。その晩にパーシバル司令官は無条件降伏文書に署名をした。占領中は、日産がトラックや軍用自動車の組み立てに使った。
  12. 昭南神社 (Syonan Jinja): シンガポール戦闘での日本軍戦死者を祀うために建てられ、日本の宗教文化儀式が行われた。日本占領が終わった時に破壊された。
  13. アダム公園での戦い (Adam Park Battle): イギリス軍が日本に降伏する最後の数日の激戦区。
  14. チャンギ壁画 (Changi Murals): チャンギ捕虜収容所にある聖ルカ教会の壁画。イギリス軍兵士が描いた希望と信仰のシンボル。
  15. ジョホール砲台 (Johore Battery): 東を守る3つの15インチ砲。日本への降伏直前に破壊された。
  16. サイムロード機関銃トーチカ (Sime Road Machine-Gun Pillbox): 司令部公邸を守るために配置されたトーチカ郡
  17. アレクサンドラ病院 (Alexandra Hospital): 軍事病院。病院敷地から日本軍に発砲した仕返しに、日本軍は病院を襲撃。日本軍は50人の職員と患者を殺害した。次の日の朝に、日本軍は更に150人を殺害。
  18. パシパンジャン機関銃トーチカ (Pasir Panjang Machine-Gun Pillbox): 日本軍第18師団との戦いに使われた第一マレー旅団のトーチカ郡。
  19. ジュロン・クランジ防衛線 (Jurong-Kranji Defence Line): 守備陣地の一つ。第22オーストラリア旅団が指示への誤解から、この防衛線から早期に市街に撤退したことで、防衛線が奪われた。
  20. 憲兵隊東部支部 (Kempeitai East District Branch): 憲兵隊のシンガポール本部はYMCAビルにおかれた。シンガポールとマラヤ活動に、200人の正規将校と、陸軍から採用された千人の補助員がいた。日本統治時代に、憲兵隊は多くの残虐行為を行い、数は不明の多くの人が憲兵隊の手で死亡し傷めつけられた。YMCAビルは残虐行為の中心で、一般住民は恐怖とみなしていた。被抑留者の中にエリザベスチョイとその夫のチョイクンヘンがいた。連合軍被抑留者にメッセージを渡していたことが罪に問われていた。電気ショック、殴打、飢えで拷問された。戦後の戦犯裁判で、憲兵隊の多くは自分達の行為を弁護し、自分達の命の危険から上官の指示でやむを得ずやったのであり、犠牲者に私怨や政治意図はなかったと発言した。
  21. 日本軍宣伝工作本部 (Japanese Propaganda Department): ドビー・ゴートに現存するキャセイビル。ビル正面の壁面は当時のもの。1939年に完成した時には、東南アジアで最も高い摩天楼で、中の映画館には当時珍しい空調がついていた。イギリスマラヤ放送社だったが、日本軍占領後に日本の宣伝工作本部になった。映画監督の小津安二郎氏が戦時中に居住した。
  22. ポンゴル海岸虐殺 (Punggol Beach Massacre): 1942年2月28日、シンガポール華僑虐殺事件の犠牲者である400人の中華系民間人が、この海辺で殺害された。ポンゴル海岸は華僑虐殺事件が行われた主要3箇所のうちの1つ。殺害された犠牲者は、海に放棄されるか、岸辺に打ち捨てられた。生存者は通りすがりや漁民に発見された。1977年に砂に穴を掘った際に見つかった頭蓋骨で、脚光をあびた。
  23. セントーサ海岸虐殺地 (Sentosa Beach Massacre Site): シロソ砲台で日本人の埋葬を待っていた降伏したイギリス砲手は、遺体がケッペル湾を漂い、多くがセントーサ島に打ち上げられるのを見た。弾丸が多数打ち込まれた300の遺体は、シンガポール華僑虐殺事件の犠牲者だった。
  24. シンガポール華僑虐殺事件検閲中央拠点 (Sook Ching Inspection Centre): シンガポール華僑虐殺事件でのふるいわけが行われた大規模な閉鎖地域の中心が、チャイナタウンのホンリョン・コンプレックスだった。ふるいわけに合格した者は開放され、失格したものはトラックに載せられ処刑のために遠くに運ばれた。虐殺の目的は反日要素を除去するためだった。憲兵隊が識別した基準は、反日容疑者として軍事情報部がリストした名前の持ち主、自警団員、共産主義者、秘密結社員、略奪者、武器保有者だった。
  25. チャンギ海岸虐殺 (Changi Beach Massacre): 1942年2月20日に、日本軍補助憲兵銃殺隊がチャンギ海岸の水辺で66人の中華系民間人男性を殺害した。1942年2月18日から3月4日までの間に行われた数万人の反日分子を粛清したシンガポール華僑虐殺事件の一部だった。8人から12人の列でローブに縛られ、海に向かって歩くように犠牲者は指示された。浅瀬まで歩いた時に日本軍は射殺した。多くは亡くなったが、数人は生き延びた。連合軍捕虜の回想によると、最初は撃って、次に生き残った人を溺れさせた後に、犠牲者を銃剣で突いて、全員が死んでいることを確かめた。チャンギ海岸での犠牲者の遺体は、チャンギ刑務所からのイギリス軍とオーストラリア軍の捕虜100人が掘った集合墓地の近くに埋められた。
  26. インド国民軍記念碑 (Indian National Army Memorial): 日本が設立支援した軍隊。イギリスからのインド開放が目的。
  27. ブキバト記念碑 (Bukit Batok Memorials): 昭南忠霊塔と連合軍記念碑が建てられた。
  28. ラブラドール砲台 (Labrador Battery): ラブラドール公園にある。シンガポール防衛戦で使われた砲台があった。日本軍の使用を阻止するために、破壊された。
  29. ブキティマの戦い (Battle of Bukit Timah): シンガポール戦闘の最終防衛ラインであるブキチャンドゥの戦いの前に起きた激戦地点。連合軍が日本軍に反撃を仕掛けたが、敗れる。
  30. サリンブン海岸上陸 (Sarimbun Beach Landing): シンガポール攻防戦の最初の戦闘地点。日本軍はここからシンガポールに上陸した。
  31. クランジ海岸戦闘 (Kranji Beach Battle): 上陸した日本軍に、連合軍は石油をまいて火をつけて大損害を負わせ撃退した。西村琢磨中将が率いる日本軍は撤退しかけたが、オーストラリア軍の不可解な海岸からの撤退命令で、日本軍は拠点を築いた。
  32. パシパンジャン戦闘地 (Pasir Panjang Battle Site): シンガポール攻防戦で最終戦闘の一つ。連合軍に銃弾が尽きた時に、手で格闘戦を行った。マレー部隊は最後の数人になるまで戦った。その時でも士気は高く、周囲で石油に火をつけられたが、降伏より火の中に挑んでいった。記念碑があるケントリッジ公園は、シンガポールの防衛のシンボルとして存在する。
  33. サイムロード野営地 (Sime Road Camp): 連合軍が作戦本部を置いた。
  34. ハブロックロード収容所、リババレーロード収容所 (Havelock Road Camp / River Valley Road Camp): 日本統治時代の民間人収容所。ここから労働のために島内に送られた。
  35. 旧市役所 (Former City Hall): 戦争中は空襲への避難所として、日本軍占領時は市政本部として使われた。終戦時に、マウントバッテン卿が板垣征四郎司令官から降伏を受けた場所でもある。

シンガポールとの血債協定

こうなるとシンガポールも、日本を非難する「アジアの声」から省かないといけない。 (産経: 井上和彦氏)

シンガポール政府は、シンガポール華僑虐殺事件への1967年の準賠償(血債協定)をもって、太平洋戦争中の出来事への日本への非難や請求は止めています。当時の金額で約30億円相当の無償供与です。協定の中にある「第二条 シンガポール共和国は、第二次世界大戦の存在から生ずる問題が完全かつ最終的に解決されたことを確認し、かつ、同国及びその国民がこの問題に関していかなる請求をも日本国に対して提起しないことを約束する」を守っているのです。

その一方で、日本占領時代の評価はシンガポールで確定しており、「シンガポールの近代史で最も暗黒の年」という評価をシンガポール国立公文書館はしています。

シンガポールの近代史における最も暗黒の年を通して生きた人々が直面した困難の記憶と考えが、常設展「昭南時代」(1942年から1945年の日本統治下のシンガポール)で保存されています。

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シンガポール教科書『現代シンガポールの社会経済史』(1985年版)においても「日本統治下においてシンガポールの人々は最も暗黒な日々を過ごした」と表現されています。

Page.158 13.1 Singapore after the British Surrender
"Syonan" means "The Light of the South", but this 'light' did not shine brightly and the people of Singapore spent the darkest days of their lives under Japanese rule.

結論:「シンガポールは日本が戦ったことを感謝していない」

以上から、「シンガポールは日本が戦ったことを感謝していない」が結論です。
歴史上の記述に何が「正しい」かを定義することは不可能です。事実確認自体が難しいだけでなく、どの事象に重きをおいて因果関係があると判断するかで、異なる解釈ができるからです。
しかしながら、今回のテーマ「日本が戦ってくれて感謝しています」は正誤を言えます。人の印象の問題なので、「あなたは感謝しているか」と聞けば良いからです。

インド国民軍のように、関係者に支持された動きも一部ありましたが、むしろそれは例外です。大枠としては、シンガポール華僑虐殺事件、憲兵隊に代表される強硬な統治政策、経済的困窮のために、「暗黒の日々」と太平洋戦争は位置づけられています

後記

中華系が多数を占める国家、というだけで「シンガポールは反日」という指摘を受けることがあるのですが、違います。確かに終戦直後は反日感情が中華系を中心に強かったのですが、太平洋戦争の精算をリー・クアンユー初代首相がしたことで、現在は有数の親日国家の一つです。「アジア10ヶ国の親日度調査」(アウンコンサルティング実施)では「日本人が好きですか?」という質問に95%が大好きか、好きと答えています。

日本の防衛政策には、安倍晋三首相が進める「積極的平和主義」を日米同盟の下で、早い段階から支持を表明しているのがシンガポールです。
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政治の要人の往来も頻繁で、2014年だけでも、シンガポールのリー・シェンロン首相と安倍晋三とで首相会談が4回も行われています。リー・クアンユー初代首相の葬儀では、安倍晋三首相は国会期間中の日程でありながら、週末に日帰りでシンガポールに訪れて参列しています。
シンガポールのリー・シェンロン首相は個人的にも日本が好きで、2006年と2015年に北海道旅行、2013年には富士山観光を、(公務でなく)プライベートの休暇に行っています。
uniunichan.hatenablog.com


「シンガポールが日本軍に感謝」しているかどうかは、記事が英訳されて、現地メディアで報道されればフィードバックで簡単に分かる話です。日本は良くも悪くも排外的な日本語でコミュニケーションをとるため、コミュニティ外には伝播しにくい傾向があります。良く言うと、自文化を進化させることに長けているのですが、別の面では、対外的な評価を受けていないということです。
シンガポール関係者なら「シンガポールが日本軍に感謝するなんてあり得ない」で済んでも、関係者以外には一定の説得力を持ちます。事実の一部を切り取った記述が含まれているためですが、「それは誤解です」と実証的に主張するにはかなりの労力が必要になります。
井上和彦氏の記事が英訳され、「井上和彦氏が訴えるシンガポールにおける日本のイメージ」がシンガポールに伝われば、良好な対日感情が悪化し、国益を損なう可能性があります。シンガポール在住日本人には悪夢です。これに大メディアである産経が関与しているのも、問題を大きくしかねません。とある大新聞が歴史問題で紛糾しましたが、産経はその轍を踏まないことを強く望みます。

資料

"Social and economic history of modern Singapore. 2" (「現代シンガポールの社会経済史」(1985年版)) の原文を掲載します。

11.3 アジアと太平洋での戦争、11.4 なぜ日本は東南アジアを征服したがったのか、11.5 なぜ日本は米国との戦争に入ったのか

写真は"Social and economic history of modern Singapore. 2" P.128 - P.133及びP.138より筆者撮影



12.4 ジョホールの戦い

写真は"Social and economic history of modern Singapore. 2" P.145, 146より筆者撮影

13.2 イギリス人の収監

写真は"Social and economic history of modern Singapore. 2" P.160より筆者撮影

13.3 中華系への処罰、13.4 5千万ドルの"贈り物"

写真は"Social and economic history of modern Singapore. 2" P.160, 161, 162より筆者撮影



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