今日もシンガポールまみれ

日本のあっち、シンガポールのこっち

シンガポールで日本人が合法リモートワークをする3条件~フリーランスは不可~

シンガポールウォッチャーのうにうにです。
最近、日本人コミュニティで急速に広まっているのが「シンガポールに住んでいる外国人が、シンガポール国外と行うリモートワークは合法」というものです。
リモートワークの調査結果をまとめました。
結論から言うと、「シンガポールに住んで、海外とのリモートワークは可能」とのDPへの就労許可特例もありますが、「国外企業の雇用主が必要」です。雇用契約国で社会保障費・年金等の支払いも発生するため、特例を利用できる日本人はまずいないでしょう。(2021年3月21日追記: パンデミックでのリモートワーク活用で、日本雇用を継続しながら、海外就労を認める雇用を少数ですが聞くようになっています)
業務委託契約のフリーランス/個人事業主/自営では、就労許可(EP/PR)が必要です。

※注意:本記事では就労ビザの扱いを中心とします。税は記述の範囲としません。税については、下記リンクの提示にとどめます。

MOMへの問合せと回答

日本人コミュニティ内で広まっているのは、
「MOM(シンガポール労働省)サイトには書いていないが、個人的にMOMに問合せた所、シンガポール人の労働を奪うものでないから、リモートワークは行って良いとの回答を得た」
というものです。これが本当なら、従来は永住権保持者PRであるか、シンガポールに法人を設立して就労ビザ(EP/S Pass)か、DP(扶養ビザ)ならLOC取得がリモートワークには必要と考えられていたのと比べると、劇的な緩和です。
「公開されていない」「個別に問合せると特例をコソッと教えてもらえる」というのがミソです。書かれていないことは証明できないために、不正確な内容が広まっています。
MOMに私が問い合わせをしました。MOMへの問合せは、下記から誰でも行えます。

MOMからの回答を訳します。

EPとS Passホルダーはシンガポール登記企業からジョブオファーが必要で、各就労ビザの基準を満たす必要があります。一般的に、EPとS Passをスポンサーする雇用主のためにのみ、働くことが許されており、収入を増やす追加での仕事は許可されていません。
一方、DPは、EPとS Pass保持者の家族が、シンガポールに同行することができるようにするものです。
DP保持者は、下記条件を全て満たせば、就労ビザ(work pass)なしにリモートワークをすることができます。

  • DP保持者は海外企業に勤務し、自宅から働くこと。かつ、
  • 海外企業はシンガポールに(現地法人などの)存在がないこと。かつ、
  • DP保持者は、シンガポールで顧客に会ってはいけないし、サービスを提供してもいけない。

MOMが提示した3条件の英語原文やさらなる問合せには、上記MOM窓口に直接問い合わせ下さい。

シンガポールで外国人が合法にリモートワークを行うDP特例3条件

EPとS Passは、副業ができません。シンガポールでの就労には、EP/S Pass/LOCなどの就労許可が勤務先ごとに必要ですが、同一人物に複数の就労許可は原則として現在は発行されていません(例外: EP所持者の関連会社でのディレクター)。ですので、EPとS Pass所持者は、就労ビザ申請時に認められた勤務先とは別に、リモートワークの副業はできません。就労許可無しにリモートワークを行えるのは、DPのみの"特例"です。

MOM回答を補足します。
リモートワークとは、「シンガポール以外の外国企業と雇用関係があり、シンガポールで業務を行うが、外国にたいしてサービス提供されるもの」ということになります。
(1) DP所持者は海外企業に勤務し、自宅から働くこと。
MOM原文では working for an overseas company であり、フリーランスや個人事業主や自営ではできませんwork forは雇用関係 (employment) を意味する言葉であり、「Xのために働く」は不正確です。在日本企業との雇用契約では、労働時間次第で各種社会保険(健康保険・年金など)を受けることになります。
なお、この「リモートワーク特例でフリーランスはできないのか」と何人もがMOMに問い合わせていますが、「できる」という回答をもらった人はいません。
また、オフィスを借りられず、知人宅・カフェなどのシンガポール内の出先で仕事ができません。自宅をオフィスとして使うことになるので、URAへの登録が必須です。

(2) 海外企業はシンガポールに(現地法人などの)存在がないこと。
リモートワークであっても、シンガポールに登記されている法人がある企業への勤務は、できません。該当シンガポール法人に正規に雇用されて就労許可をとるように、という意味です。例えば、シンガポールに現地法人があるパナソニックには、日本法人へのリモートワークであってもDP特例は適応できません。シンガポールのパナソニック現地法人から就労ビザを得て、日本法人業務をすることになります。
(3) DP所持者は、シンガポールで顧客に会ってはいけないし、サービスを提供してもいけない。
"製品"の提供はリモートワークでは不可能なので、"サービス"とのみ書かれています。自宅でしか仕事ができないのだから、国内で人に会えませんし、たとえ職場として登録した自宅への訪問を受けても業務で人に会えません。対面だけでなく、電話・スカイプなどビデオ通話も含め、シンガポール在住顧客や見込み顧客、およびシンガポール旅行中の顧客および見込み顧客と会うのは避けましょう。在シンガポールの法人・団体・個人にサービスを提供するなら、それはもはやリモートワークではない、という意味です。

具体的に可能なリモートワークには、

  • IT開発
  • マーケティング
  • デザイナー

などが想定されます。たとえば、夫がシンガポールに駐在し、妻がDPで帯同する。妻はウェブデザイナーとして日本での雇用を継続し、シンガポールから日本に対して就労ビザなしでサービス提供することが許されるということになります。
つまり、フリーランスや個人事業主や自営にDP特例適応が認められておらず、雇用契約が必要になるため、実際に利用可能な人は少数、ということです。現実的に、海外在住者にリモートワークでの雇用を認める勤務先を探すのは大変ですが、以前からの勤務先が認める例を聞いています。
ランサーズ、クラウドワークス、oDeskなどで見つけたリモートワークは、まずDP特例3条件を満たしません。業務委託契約であり、雇用契約が無いからです。

違法就労は止めましょう

リモートワークでの違法就労例

今回、調査して、この記事を書いた2つの理由は、「リモートワークは合法」と主張する人が出てきたことと、「リモートワークは合法と主張した上で、MOMが認めている範囲を超えて、違法就労をしている人がいること」です。下記はDPリモートワークでの違法就労例です。

  • 有償オンラインサロンや、広告収入があるブログなどのネット運営は、できません。 (雇用関係が必要)
  • 雇用契約がないウェブメディア・雑誌への記事提供はできません。(例:PVに比例した報酬を受け取る「Yahoo!ニュース 個人」、原稿料を支払う東洋経済オンラインなど)
  • シンガポールに現地法人がある日経への記事提供はできません。(現地法人から就労ビザの取得が必要)
  • シンガポールのセミナーにパネリスト等として参加することはできません。 (顧客対面の禁止)
  • DPでないEPやS Passが、ビザ取得勤務先以外の業務をリモートワークで行うことはできません。(副業禁止)

「リモートワークの可否をMOMに問合せた所、問題ないと言われた」と主張している人であれば、私と同じ3条件の回答を得ているはずです。それにもかかわらず、違法就労を行っているのであれば、MOMから得たDP特例3条件を誤解しているか、MOM見解が非公開であるために強弁しているかの、どちらかでしょう。

DP特例3条件を丹念に読む

DP特例3条件を読むと「こうすれば合法リモートワークとしてできるのではないか」と気づくことがあります。例えば、

  • 顧客をシンガポール国外居住者に限定すれば、有償オンラインサロンや有償購読サイト運営は可能では?

などです。
上記をMOMに追加で問い合わせました。結論は「(リモートワークではなく)個人事業主にあたり、不可。就労許可をとれ」というものでした。これは、DP特例3条件の(1)での「リモートワークには海外雇用主が必要(フリーランスは不可)」という内容にも合致します。MOMからの回答を訳します。

ビジネスオーナーとして自営を希望するDP所持者にとって、申請すべき正規の就労パスはアントレパスです。アントレパスは、シンガポールでビジネスを運営することを希望する外国人のためにデザインされています。
ビジネスの登記の前に、DP所持者はアントレパスを申請することをアドバイスします。ビジネスの登記ができても、アントレパスの付与を保証するものではないからだ。
アントレパスの情報には、下記リンクを参照して下さい。 http://www.mom.gov.sg/passes-and-permits/entrepass

MOMに新規企業設立でのビザを問い合わせると、EPではなくアントレパス取得を回答されることがあります。「政府認定ベンチャーキャピタルから投資を受けていること」などアントレパスのほうが、大半の人にはEPより条件が厳しいです。現在、アントレパスで滞在している日本人を私は知りません。いずれにせよ、EPやLOC取得ができないのが理由で、DP特例利用を検討している人の選択肢にはならないです。
以上から、趣味の範囲を超えて、アフィリエイト報酬や顧客からの食事・試供品など物品・サービス提供があり就労とみなされるブロガーも、リモートワークではなく個人事業主のため、DP特例3条件ではできません

他の合法化には、誰もが思いつくであろう、フリーランスの業務委託契約ではなく、「実際は案件単位でも、契約社員としてこまめに有期契約を繰り返す」ことで雇用契約に見せかけることは、止めましょう。たとえこういうリスク有る雇用契約を受け入れる企業があったとしても、契約社員との主張に必要な勤怠管理の証明が困難だからです。勤怠管理を整えてまで契約社員と主張するのであれば、MOMとの紛争を覚悟して下さい。
また、日本などで自分・家族・親族・知人名義で法人を設立して、そことの雇用関係を主張するのも、実態がフリーランスなので、MOMとの紛争を覚悟して下さい。MOMが「面倒だからこの件から手を引こう」と思うか「悪質だから再発防止のために一罰百戒で取り上げてプレスリリースを出そう」と思うかは、分かりません。シンガポールの就労許可で、最終判断はMOMです

シンガポールでは報酬なしでも労働にあたる

シンガポールでは、報酬がなくても、趣味・ボランティアではなく、労働と判断される行為があります。代表例は、インターンシップです。シンガポールではインターンシップを含む無償労働にも、外国人は就労ビザ取得が必要です。就労でなく趣味とみなされるためには、報酬が無いことが最低限必要になります。
報酬があれば労働と判断されます。報酬には、金銭以外でも、食事・物品(試供品)提供・サービス(タダ券・割引券・旅行・移動手段)供与が含まれます。
詳細は下記を参照下さい。
uniunichan.hatenablog.com

非公開のDP特例3条件

最後に、念の為ですが付記します。
リモートワークのDP特例3条件はMOMサイトに提示されていません。利用可能者があまりに少ないとしても、情報公開が徹底しているシンガポールでは異例です。
非開示ということは、MOMが予告なく改変・撤廃する可能性があるということです。
リモートワークを検討しているDP保持者は、開始前と、開始後も定期的にMOMにご自身で確認して下さい。


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検証記事:花輪陽子氏「シンガポール人は老後資産に1億円以上が当たり前」は本当か (東洋経済)

シンガポールウォッチャーのうにうにです。
東洋経済オンラインにて「シンガポール人が日本人より超金持ちの理由 老後資産の目標額は1億円以上が当たり前!」という花輪陽子氏の記事が掲載されました。
今回は東洋経済という大きな媒体で、更にアクセスランキングでも1位をとったとのことです。本記事はニューズウィーク日本版ヤフーMSNへの配信もされています。シンガポールへの誤解が定着することを避けるため、東洋経済記事を引用しながら、内容を検証します。

toyokeizai.net

東洋経済記事の検証

花輪陽子氏はシンガポール在住のファイナンシャルプランナーとのことです。名称独占資格の1級ファイナンシャル・プランニング技能士であり、日本の職業能力開発促進法に基づくものなので、海外では資格の影響はありません。シンガポールでは、FPASというNPO団体が行っているCFPというファイナンシャルプランナー資格がありますが、花輪陽子氏はこちらへの言及はありません。なお、業務資格の有無にかかわらず、外国人が当地でビジネスをするのには、ビザ(EPやLOC)など就労資格が必要になります。

シンガポールに公的年金はないのですか?

シンガポールは、 (略) 小さな政府であるため、先進国にかかわらず公的年金がありません

シンガポールに公的年金はあります。
該当記事でも後述されているCPF (Central Provident Fund=中央積立基金) がそれです。国民と永住者は強制加入です。永住権を持たない外国人は、現在は新規加入できません。CPFはシンガポール労働省管轄の公的機関です。CPFには多彩な機能がありますが、

  • 本人と雇用主からの強制貯金
  • 住宅購入等、医療、年金の3つの口座

が特徴です。納付には所得税からの控除もうけられます。CPF自身が「CPFは定年に備えて、安心と信用をもって、多くの働くシンガポール人に包括的な社会保障の貯蓄計画を提供するもの」と説明しています。

記事でも「厚生年金のように」とCPFを表現されているのに、なぜ公的年金でないと判断されたのか理解に苦しみます。

シンガポールの老後には1億2千万円が必要なのですか?

「老後に1億2000万円必要だから」シンガポールの知識層からたびたび聞くフレーズ

シンガポールの"知識層"の定義が本文中で示されていないのですが、記事のタイトルが「老後資産の目標額は1億円以上が当たり前!」と書かれているので、過半数と捉えて良いでしょう。
老後資金の統計は、私が調べた限りでは見当たらなかったのですが、シンガポール政府が示した必要資金のモデルがありました。
シンガポール政府は金融知識の普及のために「マネーセンス」というウェブサイトを作っています。そこでは62歳で、3,500万円(S$43万)の金融資産がモデルとして示されていました。

  • 現在の物価価値で、年140万円 (S$1.8万) を老後に使いたい。
  • 今後のインフレを考慮すると、現在の200万円 (S$2.52万) に該当する。
  • シンガポール人男性の平均余命が83歳。62歳に引退するとする。83-62=21年間にわたって、毎年140万円相当を使うためには、引退時に3,500万円 (S$437,245)が必要になる。
  • MoneySENSE: The MoneySense Guide to Planning for your family's financial future (22ページ)

国民一般が対象の文書ですから、62歳で3,500万円は中間か平均に近い数字と考えて良いでしょう。その根拠となる「一人月額12万円」の妥当性については、後述します。

シンガポールの年金生活者は月に30万円も使うのですか?

シンガポールの老齢者の月間平均支出は、30万円

間違いです。これには政府統計があります。統計での最大支出額の範囲となっている、月間支出が16万円($S2千)以上は、65~74歳でわずか8.0%です(2011年)。統計分類上で最も多いグループは月額4万円~8万円を使う人で37.4%を占めます。
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2011年と若干データが古いのですが、2011年から2016年の物価上昇率は累積でも6%にすぎないので、今でも月間支出が16万円(S$2千)以上の人は1割前後でしょう。これが、マネーセンスの金額の「なぜ老後は月額12万円(S$1,500)でよいのか」という根拠になります。

この金額で十分なのは、シンガポールの持ち家率の高さが貢献しています。日本の持ち家率は全国平均で61.7%(2013年)ですが、シンガポールの国民・永住者の持家率は90.3% (2014年) にもなります。CPFで強制貯金されており、CPFの限られた使用用途の一つが住宅購入であり、シンガポール人は自国に不動産を持つように動機づけがされています。
高齢者は更に持ち家率が高いです。65歳から74歳は、98.2%が持ち家です。住宅ローンが終わっていれば、衣食への費用は大したことがなく、不安は医療費程度になります。

シンガポールでは収入の1/3を積み立てても老後資金に不足するのですか?

若いときから収入の1/3を積み立てていれば、有事のおカネをすべてまかなえるかというとそうではありません。
「インフレに負けない」3%以上で運用する

記事の説明では不正確です。若いときから収入の1/3を積み立てていても、老後資金に困るって、どんな修羅の国なんですか。

CPF以外に老後資金を準備するのが望ましい理由は、CPFは年金以外にも住宅購入・医療に使われることと、積み立て金額に上限があるためです。
CPFは住宅購入・医療・年金の3つの口座があり、口座の積み立て比率は年齢によって異なります。35歳以下では、約6割が住宅購入口座に入り、年金には16%しか入りません。35歳以下では、収入の5%程度しか年金積み立て用の口座に入れていないのです。60歳~65歳になると、住宅口座には約2割しか入らず、年金に15%、約6割は医療口座になります。

CPFの強制貯金は、月収S$6,000以上の収入で打ち止めです(別途ボーナスなどでの積み立てはあり)。つまり、$6,000を超えた収入の人は、老後も類似の生活水準を維持するには、CPF以外での老後資金運用を考える必要があります。日本でも「年金だけで老後資金の大半がまかなえる人」は、限られているのと似た状況です。

余談ですが、シンガポールは税が安い国として知られていますが、国民はそうだとはさほど感じていません。これは月給S$6千(約50万円)までは、雇用主負担分を含めて収入の1/3をCPFに納付するからです。これが、CPF上限の月給S$6千を超えると、一気に負担が楽になります。

おいしいCPF

シンガポールでは昨年のインフレは0.6%でした。2006年から2016年の十年間では、年あたり2.4%です。

CPFは非常にオイシイ制度です。世代間格差を生む日本の賦課方式の年金とは異なり、積立方式です。自分が貯めたものを、老後などのタイミングで自分が受け取るのです。その間は、複利運用が当然されます。ポイントは

  • そこそこ高い金利
  • 政府の元本保証

です。目的によって異なる口座種類や、口座額によって違いますが、利息が2.5%~5%にもなります。私は元本保証でこれよりオイシイ金融商品を世界中に知りません。知っている人がいれば教えてください。
: 住宅購入等に使える普通口座は2.5%、医療口座と年金口座は4%。しかもS$6万までは、プラス1%のボーナス利息があるのです。利息は市場に応じて定期的に見直されていますが、最近はずっとこの値です。

インフレを考慮しても、普通口座であれば元本価値キープ、医療口座と年金口座は貯蓄を増やすことができます。日本の現役世代からは垂涎の制度に見えますが、これでも不満があるシンガポール人がいるのが、驚きです。

シンガポール人はそんなに金融知識が高く、運用益を得ているのですか?

元本保証CPFを止めて投資運用にでたシンガポーリアンの末路

シンガポールのように、自助努力でおカネを準備しなければならない

記事を通して、いかにシンガポール人(知識層)が金融リテラシーに高く、自助努力で老後の運用益を抜け目なく得ているかのように、印象づけられています。これは必ずしも事実ではありません。

CPF運用の王道は元本保証での政府への一任ですが、CPF口座残高が一定額を超えると、認定された金融商品に、リスクを取って個人の判断で投資をできる制度があります。CPFインベストメント・スキーム (CPFIS) といいます。

ところが、政府発表(2016年)では、CPFISでリスクをわざわざとりにいった人は過去10年で45%が損失を出しています。マイナスです。35%の人は、利益を上げていても、CPFであれば保証されていた2.5%未満でした。つまり、8割の人は不要な積極投資をしてCPFであれば得られた収益を逃しています

なお、2015年の単年では、CPFISを2.5%以上の利益が27%、2.5%未満の利益が15%、損失が58%です。2016年の単年では、市場上昇を受けて、78%が2.5%以上、2.5%未満の利益は10%、損失が12%となっています。年金なので上述の長期の10年スパンという発表で判断するのが適切でしょう。



なぜこんな惨状になってしまったのかについて、シンガポール政府は2点を指摘しています。

  1. CPFISの投資に必要な投資マネージャーへの手数料
  2. 市場に熱がある高い時に買い、価格が弱気になると売る平均的な投資家の行動をとるため

ファイナンシャルリテラシー以前の話として、営業のコストはまわりまわって消費者の支払いに含まれるという原理原則があります。シンガポールにおいても、金融商品の街頭キャッチセールスや、営業員との喫茶店での会話を見る機会は多く、この理解は徹底されていると思えません。営業に時間をかけて「説明」され「相談」して買う商品やサービスには、直接的なコンサル費としてではなくても、販売奨励金などで結局は買い手がコストを払っています。キャッチセールスや訪問販売が避けられるのは、それだけの営業コストを買い手が払う必要がある割高商品だからです。
特に金融商品では、投資益を販売会社・運用会社と投資家とで、分割する構造があり、消費者が利益を高めるためには販売会社や運用会社の手数料が少ない商品を選ぶことが有利になる大きな条件です。
日本の金融庁では、「販売手数料等の高低のみで、その商品の良し悪しを評価するものではないが、販売会社においては、販売手数料等の水準が顧客に提供されるサービスの対価として見合ったものか否か、同種の金融商品においてより販売手数料等が低い商品が存在するにもかかわらず販売手数料等が高い方を販売・推奨等していないか」という率直な提言をレポートしています。

CPFは用途が限られているため、個人が自由には使えません。なので、「どうせ年とるまで使えないなら、積極投資にまわすか」という選択なのですが、元本保証で2.5%~5%がとれるのに、わざわざリスクを取りにいってCPFISをしている時点で、ファイナンシャル・リテラシーは本当に大丈夫な人なのか、ということがあるように私には見えます。積極投資をする原資は、CPF納付とは別の所から出せばいいのに、ということです。

投資型の保険に加入(所得控除あり)

間違いです。所得税控除がある保険は、投資型でない生命保険のみです。

CPFISに投資型保険 (ILP) の投資もあり、それへの誤認と思われます。

医療費の自己負担が6割程度

私立病院には政府補助はありません。そのため、請求金額が公立病院より高いこともあり、ミドルクラスで私立病院にかかるには、健康保険への支出を増やす必要があります。家計への負担は大きくなるため、公立病院とその保険を前提にするミドルクラスも一般的です。
公立病院外来では、専門医にかかるのに、補助が50%からです。公立病院入院では、国の補助金が1人部屋なし、4人部屋20%、6人部屋50~65%、8人部屋65~80%。日帰り手術では最大65%の補助を受けられます。
一般医での医療費補助に必要なCHAS加入資格は、世帯員の平均収入が月$1800(14万円)以下という所得制限があります。
いずれも国民の場合です。

つみたてNISAは、定期・定額での積立投資に限定した制度で、年間40万円までの投資枠に対し、その利益が20年間非課税となります。
シンガポール人も、税制の優遇を受けられる口座で運用をして、老後資金を作っています。

そもそも、シンガポールはキャピタルゲイン(資本利得)が非課税の国です。ですので、全ての口座が日本と比べると税制優遇です。
そのシンガポールの環境で、改めて「税制の優遇を受けられる口座」というと、記事にも記載があるSRS (Supplementary Retirement Scheme) があります。SRSでの優遇税制は、SRSで投資した額への所得税からの控除で、利益への税金が非課税になる日本の"積立NISA"とは違います。
また、税のメリットに制限が色々あるため、SRS口座開設数は2016年末でわずかに13万です。「シンガポール人も税制の優遇を受けられる口座で運用をして、老後資金を作っています」と言える数には程遠いです。

なぜシンガポール人は豊かなのか

記事のタイトルは「シンガポール人が日本人より超金持ちの理由」ですが、肝心の超金持ちの理由は記事では明示されていません。「世界一豊か」とも記載がありますが、一人当りGDPで、シンガポールはカタールやルクセンブルグなどに劣っていますが、なぜ「世界一」なのかも明示ありません。
私が過去に、シンガポールと日本の豊かさをGDPで比較した際に、シンガポールは日本に圧勝でも、シンガポールと東京都だとほぼ同じ一人あたりGDPとの結論でした。
uniunichan.hatenablog.com

私からは、シンガポールが豊かである理由として、フローとストックのそれぞれで

  • 共働き
  • 資産インフレ

の2つを指摘します。

フロー: 共稼ぎ

共稼ぎ率
日本 47.6% (2015年)
シンガポール 53.8% (2015年)

シンガポールは日本より7%ぐらいしか数字上では共働き率は高くありません。ところが、シンガポールでは特に出産後もフルタイムで働く女性の比率が高いのです。これが、日本との家計の決定的な差になります。共稼ぎでないと食っていけない経済事情や、外国人住み込みメイドなどが早期職場復帰と共稼ぎを支えています。
uniunichan.hatenablog.com

その結果、

世帯収入中央値 世帯収入平均
日本 428万円 545万8千円 (2016年)
シンガポール 864万円 (月S$9,023) 1152万円 (月S$12,027) (2017年)

と世帯収入が、中央値と平均値で倍以上、シンガポールに突き放されています。
※成人した子どもの親との同居率が高いことと、核家族化の進行が日本よりゆるやかなのが、シンガポールの世帯収入を押し上げる要因になっているのは留意事項です。
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  • シンガポール統計局: Key Household Income Trends, 2017

ストック: 資産インフレ

もう一つが資産インフレです。シンガポール人は働きだして、結婚となると、真っ先に住宅(HDBと呼ばれる公団)の購入を予約します。シンガポールは、社会人になっても、結婚までは親と同居が一般的です。理由は、国土が小さすぎるので交通の便を理由に引っ越す理由がないことと、賃貸が高すぎることです。
家を買うのは、新しい家族のプライバシー確保に加えて、(少なくとも中長期では)不動産は絶対に上昇するという確信がシンガポールにはあるためです。不動産を買うと、買った値段より中古なのに高く売れるのが常識なのです。「新築の家は買った瞬間に、2割値下がりする」と言われる日本とは大違いです。これがシンガポールの持ち家率の高さを支えています。日本のバブル時代のような考えが当地では一般的で、「持ち家 VS 賃貸」論争がある日本人の私からすると「大丈夫か」と不安になります。
シンガポールの不動産指数を掲載します。近年は、政府が過熱防止の為に印紙税を導入し上昇を無理矢理抑えていますが、時々ある経済クラッシュとアジア通貨危機後の低迷を除くと、基本的には右肩上がりです。
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かくして、シンガポールでは、収入を上げ、資産も貯まっていくのです。

海外記事の質と、その向上には

メディアは状況と異なる印象を与えることができます。中途半端に知っている現地関係者も加担することで、「一部真実」なキャッチーでもっともらしい話になり、日本の記事では通用しないような質の海外記事が流通します。事実ならともかく、事実ではないので迷惑です。

フェイクニュースが取りざたされる昨今です。残念ですが、海外在住者から見ると、日本での海外記事には、分析や主張以前であるファクトへの真偽に疑問がつく記事を少なからず見かけます。私がこれまで検証してきた記事にも「シンガポール国立大学の学費は無料」や「日本が戦ってくれて感謝しています」というものがあります。「シンガポール国立大学の学費は無料」の記事も、東洋経済オンラインでした。
uniunichan.hatenablog.com
uniunichan.hatenablog.com

しかし残念ながら、検証記事は、そのきっかけとなった派手な記事と比べると、読まれる件数はわずかです。
シンガポール在住者が書いた今回の記事は、シンガポール関係者を驚かせています。「その国に住んでいるから」だけで記述が正しいとの根拠にならないのは、日本人が日本について書いても正しいとは限らないのと同様です。
今回の東洋経済の記事は事実誤認があります。また、花輪陽子氏の過去の他誌でのシンガポール記事でも、事実誤認を含み関係者を驚かせた記事はあります(日経DUAL)(ダイヤモンド・ザイ)。

改善には、

  • 同業者も認める信頼できる専門家を著者にする
  • それができなければ、せめて情報の出所を編集部が確認する

が有効です。花輪陽子氏のファイナンシャルプランナーとしての著述には私の専門外なのでコメントしませんが、これまでのシンガポール記事は商業媒体のライターとしての適格性を欠いているものがあります。花輪陽子氏の記事にはデータの出所記載がありません。現地の英語文献にあたっている様子も見えません。「シンガポールの老齢者の月間平均支出は、30万円」と記事に書いてあれば、「ソースは?」と赤を入れて筆者につき返すのが編集の仕事のはずですが、本当に東洋経済オンラインは校閲を行っているのか、という疑問も起きます。日本の編集部が海外事情が分からず内容を精査できないのは(百歩譲って)しょうがないとしても、せめて、記事の根拠となる出所は筆者に提出させる、でかなり改善できるはずです。
東洋経済オンラインがメディアの良心として、今回の記事への訂正・削除を行うことを、願っています。

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シンガポールの禁じられた歴史漫画「チャーリー・チャン・ホック・チャイの芸術」

"稗史"

シンガポールウォッチャーのうにうにです。シンガポールの歴史漫画として小学館の「リー・クアンユー伝記漫画」を以前紹介しました。この漫画は巻末で、リー・クアンユー自伝である「リー・クアンユー回顧録」が上げられているように、シンガポール政府の歴史見解に近い内容で漫画化されています。
uniunichan.hatenablog.com
今回、紹介するソニー・リウ (Sonny Liew) 氏が描いた「チャーリー・チャン・ホック・チャイの芸術 (The Art of Charlie Chan Hock Chye)」は、その真逆を行きます。「リー・クアンユー伝記漫画」を正史とするなら、"稗史"と呼べるものです。

"稗史"の勲章でもある、政府からの作品への否定も、見事に受けています。2015年、シンガポールのEpigram Booksというシンガポールの出版社で、印刷が終了し販売開始になる前日に、シンガポール国家芸術評議会 (NAC) が本への助成金$8,000 (約64万円) を取り消します「政府の権威や合法性を弱める可能性があるシンガポールの歴史が語られている」という理由で助成金ガイドラインに反しているというものでした。
出版社は受領済みだった$6,400を返金し、本に印刷されていたシンガポール国家芸術評議会 (NAC) のロゴをシールで貼って隠して、予定通りの2015年5月30日に販売に踏み切ります。結果として、かえって注目を浴びる"炎上商法"になり、初版の千部は数日で完売しました。シンガポールの人口が500万人強なのを考えると大ヒットです。半数の500部を売り切ったシンガポール紀伊国屋は「通常のヒット作の3倍の売れ行きだ」と述べています。この出版社での漫画は、販売を2年かけておこない、年の平均販売数が500部とのことです。その一方で、この好調な滑り出しは助成金撤回への国民の怒りなだけでなく、ソニー氏がファンを持つ著名な漫画家であったからだというのが出版社の考えでした。

日本と比べると、シンガポールは書籍市場が極めて小さいことが、出版部数から分かります。2016年9月に、「チャーリー」での収益をソニー氏は明らかにしています。それによると、総額でS$6万(約500万円)の収入です。この後も、アイズナー賞獲得効果などで継続的に売れているはずですが、2年の製作期間なので、この時点では月給換算で$2,500 (約20万円) にしかなりません。これだけの評判を得ても、米国など他国での販売収入、賞金を含めてこの金額なので、なかなかに大変です。
翌年の2016年にはPantheon Booksによりアメリカで大々的にに刊行されました。「チャーリー」は、これまでに37個もの賞を獲得しています。その中には、助成金を取り消したシンガポール国家芸術評議会 (NAC) も後援するシンガポール文学賞や、シンガポールブックアワード、アメリカの漫画界で最も権威あるアイズナー賞が含まれます。

言論の自由に、他の先進国より制限があるシンガポールで、一度は物議をかもしましたが、漫画としての作品への評価はシンガポールでもメインストリームをいっています。現地の紀伊国屋や地元書店で普通に(背後を気にすること無く)購入できます。紀伊国屋はチャーリー・チャン・ホック・チャイのノベルティまで作っています。キャンバス地のショッピングバッグや、チャーリーデザインの紀伊国屋メンバーカードです。

というわけで、シンガポールでの扱いも、政府助成金が撤回はされたものの、発売禁止でもないため、"禁書"とまでは言えません。
※写真は私が購入した「チャーリー」。300ページちょいですが、洋書らしく分厚い

なぜシンガポール政府が反発したのか

ソニー氏が作品で訴えているのは、

  • 建国以来、一党支配が続く中で、与党が行っている以外の歴史解釈の提示
  • シンガポールの歴史に「もしも」があり、他の選択肢はなかったのか。他の選択肢を選んでいればどうなったのか
  • 経済的に発展したシンガポールだが、経済成長と引き換えに国民が失ったものはあるのか
  • 強いリーダーシップスタイルをとり、言論の自由を制限するリー・クアンユー初代首相への評価

というのが私の理解です。
しかしながら、ソニー氏自身も、具体的にどの箇所がどのように「センシティブなコンテンツ」であり、助成金撤回になったかは分からないとメディアの取材で語っています。シンガポールの歴史において、事実でないことを書いたり、人を中傷をすることは、裁判で訴えられてきたことをソニー氏は認識して踏まえており、徹底した取材を行ったと、BBCのインタビューで語っています。

ソニー氏は、「自分の問題提起に対して、シンガポール国家芸術評議会 (NAC) が取り組むことを期待していたが、政府は議論を避けて押し黙ってしまい、状況は以前より悪化した」とシンガポールのウェブメディア Mothership.sg に語っています。シンガポール国家芸術評議会 (NAC) は柔軟で漫画にも助成金を与えられるように変わったりしているので、いつかは議論ができるのではないかと、ソニー氏は希望を捨てていません。
出版側も、同じ問題が起きるのを避けたがっていましたが、これもシンガポールの歴史を題材にした小説で2017年に別の助成金撤回処置が起きています。

ソニー氏が考える助成金撤回の理由

政府からは抽象的な助成金撤回理由しか言われていません。ソニー氏が考える助成金撤回となった箇所があります。もしリム・チンシオン氏が率いる政党 社会主義戦線 (Barisan Sosialis) が1963年のオペレーション・コールドストアで弾圧を受けず、力を持ったままで、シンガポールを今日にも導いていたら、という架空ストーリです(279ページ)。ここでは、シンガポールとマレーシアの統合独立は起きずに、経済成長と労働組合の穏健化に成功し、リー・クアンユー氏はカンボジアに亡命した"平行世界'です。ここで、若きリー・クアンユーに似た人物が、シンガポールで破壊行為を行い、本来の世界に戻そうとするところで、チャーリーとリム・チンシオン氏は、独立前のシンガポールに戻るという話です。
ソニー氏は次のように語っています。
「可能性の話です。リム・チンシオンだったらどうしていたか、何ができたか。当時の制約を取り除くと、PAPがしたのと同じことをしたかもしれないが、それも可能性ですよね。全く違うことをしたかもしれない」「リアリティは現在我々がもっているもので、思考実験です。平行世界で何が起きていたかを我々が知ることはできないからです」

ソニー氏とシンガポール政府の微妙な距離

ソニー氏とシンガポール政府の距離感は不思議なものがあります。
ソニー氏は、「チャーリー」出版前である2010年に、シンガポール国家芸術評議会 (NAC)のNAC Young Artist Awardを受賞しています。
「チャーリー」に対して、政府 (シンガポール国家芸術評議会 (NAC)) の芸術助成金の返還の請求を受けていますが、その後に同じシンガポール国家芸術評議会 (NAC) も後援しているシンガポール文学賞やシンガポールブックアワードで、チャーリーが受賞しています。
ソニー氏の活動拠点は、「チャーリー」の出版以前から今でも、グッドマン・アート・センターの中にあります。これは、シンガポール国家芸術評議会が設立した企業 (AHL) が運営する、シンガポールでの芸術振興のキャンパスです。

名誉あるアイズナー賞を受賞した時に、シンガポール国家芸術評議会 (NAC) は受賞作品の名前を出さずに、ソニー氏の受賞をFacebookで讃えました。作品名を出さなかったことに対して、シンガポール人からシンガポール国家芸術評議会 (NAC) に、ネットでからかいのコメントが付いています。
ソニー氏に偶然出会ったシンガポール国家芸術評議会 (NAC) の副CEOは、アイズナー賞受賞にお祝いの言葉を伝えています。この時は公式の場でなかったので副CEOは作品名を声にした、とソニー氏は冗談めかして明らかにしています。

こう見ていくと、ソニー氏は作品「チャーリー」を含めシンガポール国家芸術評議会に高く評価をされており、むしろ助成金撤回の件だけが特異点に見えます。ソニー氏は「助成金はシンガポール国家芸術評議会 (NAC) の内部者のみでなく外部者も審査に加わっている」と語っています。

海外からみた「チャーリー」: ニューヨーク・タイムズ

ニューヨーク・タイムズがソニー氏と「チャーリー」を記事にしています。

抜粋します。

  • シンガポールの歴史が語られる時は、教科書・テレビで以下の内容で強調されてきた。
    • 巨大な隣国マレーシアから新しく独立した、小さく弱い国は冷戦の最中に共産主義に囲まれていた。
    • 建国の父、リー・クアンユーが危険な左翼を打ち負かし、残念なことに多くを投獄することで、繁栄への道筋を付けた
  • この考えに反対すると、裁判無しでの投獄、高額な名誉毀損訴訟や、社会的無視を被ることになる。
  • 状況を変えつつあるのが、穏やかなアーチストと漫画のおかげだ。小作品の連続の中で、暴動と抗議の時代を描き、政府が作った神話に挑戦し、公的な歴史に漏れた匿名の人々を救い出す。
  • 作品への反応は穏やかだった。ソニー氏は今でも政府補助を受けたスタジオを享受し、政府支援のイベントに参加し、大きな国の文学賞を受賞し、国が支配するマスコミで大きく取り扱われている。ゆっくりだが、深い緩和が起きつつある。
  • ソニー氏も政府の歴史解釈に直接は挑戦していない。その代わり、代わりとなる歴史を展開し、主要登場人物が行う実験になぞらえる。
  • 左翼活動家のリム・チンシオン氏が、政府の歴史で果たす役割はほぼない。しかしソニー氏の本では、首相になりえた中心人物である。ソニー氏は、リム氏が暴力を指示したとの嫌疑も調べており、リム氏が罠にかけられたというイギリスで新しく機密解除された文書を使っている。
  • ソニー氏「政府公認のシンガポールストーリーは一部は真実だが、それ以外の歴史を除外してしまえば、正確さを欠いた全体像になる」
  • 漫画を描く調査には、批判や名誉毀損訴訟を避けるため、正確さが不可欠だった。「事実として正しい、あるいは歴史的な証拠があることを確認しなかればならない」
  • 1万5千部が印刷され、米国でも出版され、フランス語・スペイン語でも翻訳がある。(ニューヨーク・タイムズ記事は2017年7月14日)

ソニー氏略歴: マレーシア出身の"新市民"、ケンブリッジ大哲学専攻

徴兵という"新国民"への踏み絵

シンガポールの歴史漫画を書いたソニー氏ですが、生粋のシンガポール人ではありません。マレーシア生まれの中華系で、5歳でシンガポールに移住、2012年にシンガポールに帰化しています。シンガポールの歴史について、移民がこれだけの業績を持ち社会にインパクトを与えられるというのは、移民国家であるシンガポールの底力です。
移民国家シンガポールですが、外国人排斥の機運が高まりつつあります。移民導入を積極化していた与党に対して、2011年選挙で野党が善戦した理由の大きな一つです。"新国民"も排斥の対象になっています。特に、ナショナルサービス (NS) と呼ばれる徴兵に参加していない"新国民"は、国家へのフリーライダーとみなされることがあります。逆に言うと、徴兵 (NS) を経て帰化すると、自分の人生を国家に対して犠牲を払ったとして、歓迎するシンガポール人が(極右以外は)多いです。「あいつは"新国民"だろ」「いや、彼はNSにいったんだよ」「そうか、ならいいな」というやりとりです。徴兵 (NS) を通じた仲間意識です。徴兵 (NS) にいって帰化して受け入れられている代表的な著名人は、台湾出身で野党から国会議員のChen Show Mao氏です。
徴兵 (NS) が帰化人を受け入れる精神的な踏み絵、イニシエーションになっているのは興味深い現象です。逆に、シンガポールでは徴兵 (NS) は男子のみのため、女性にはそのチャンスはないとも言えます。

ソニー氏は、ジュニアカレッジ(日本の高校に相当)の級友が徴兵 (NS) にいく中で、取り残されるFOMO (fear of missing out「喪失の危機」)を感じます。入隊することも考えますが、級友に「バカなことはするな」「俺がお前だったら、そんなことはしない」と言われます。
シンガポールでは、永住権であっても、二世の男子は、徴兵 (NS) が義務です。ジュニアカレッジ時代に、ソニー氏は永住権を持っていなかったと思われます。

学歴も職歴もエリート

日本で漫画家は、現場からの叩き上げが多い印象ですが、シンガポールらしくソニー氏はエリートです。イギリスのケンブリッジ大で哲学を専攻し、その後、アメコミのDCやマーベルに漫画を書いていました。学歴、漫画家としての職歴も、受賞前からピカピカです。

表現の技巧

チャーリー・チャン・ホック・チャイって誰だ?

この本はトリッキーな表現を使っています。1938年生まれの漫画家、チャーリー・チャン・ホック・チャイの生涯を、1965年に独立したシンガポールの歴史となぞって追っていく展開なのですが、チャーリーは架空の人物なのです。チャーリーは作品中で、狂言回しの役です。ゴルゴ13と一緒で、物語の進行役に過ぎません。チャーリの視点や、チャーリーが書いたとされる漫画の紹介で、話が展開しますが、ソニー氏が訴えるシンガポールの歴史解釈の進行役です。漫画の中で、当時の作品としてボロボロの古い保管状態を思わせる漫画や、油絵、未完成作品が複写されていますが、これらは当時のものではありません。ソニー氏の作成物なのです。その中でも、当時の手塚治虫やバットマンの影響を織り込むことで、チャーリーにリアリティを出しています。私は読み終えるまで、「チャーリーは実在であり、ソニー氏は政府からの批判をかわすためにチャーリを引用しているのだ」とのせられていました。はい。

リー・クアンユーとリム・チンシン

ソニー氏の作品での訴えを私が最も感じたのは、序章です。「一つの山を二つの虎で分けることはできない」という中国のことわざ「一山不容二虎」によって、リー・クアンユー氏とリム・チンシン氏の2人を、シンガポールが抱えることができなかったことが表されています。
リム・チンシン氏は、シンガポール独立に向かう過程において、英語でエリート教育を受けたリー・クアンユー氏が、中華系からの支持を得るために、共に活動していた人物です。労働組合などに強い影響力を持っていました。リム・チンシン氏は共産主義者として1963年に検挙され、抑留中に自殺未遂を図る深刻な鬱病を患います。今後政治に関わらないとの条件で解放された1969年に、イギリスに追われるように移ります。イギリスではフルーツ売りをしました。
このリー・クアンユー氏とリム・チンシン氏について、「リー・クアンユー伝記漫画」ではリム・チンシン氏は「共産主義者だった」との解釈で描かれています。それが「チャーリー」では、左翼活動家ではあっても「共産主義者ではなかった」という視点であり、いかに人的魅力に溢れ、周りから強い支持を受けて首相候補と言われていたかが描かれています。
「チャーリー・チャン・ホック・チャイの芸術」では、この2人を軸に話が展開します。

「チャーリー・チャン・ホック・チャイの芸術」あらすじ

歴史部分を中心に抜粋します。

  • 「一つの山を二つの虎で分けることはできない」リー・クアンユーとリム・チンシン (序章)
  • 16歳でチャーリは初の刊行物の漫画を出す。英語でなく、中国語でのみ命令を聞くロボットの漫画。多言語国家のシンガポールを象徴します。 (8ページ)
  • 1954年5月13日。ジャラン・ベサール・スタジアムでの陸上競技をチャーリは見に行ったが、警官が学生を殴打していると聞き、ジョージ五世公園(現在のフォートカニングパーク)に集まる。学生は英国統治での徴兵に反対する請願を行っていました。2年後にチャーリーが書いた漫画で、ロボットとリー・クアンユーが登場するが、当然事実ではなく、事実と創作をミックスさせるストーリー展開を行っています。 (30ページ)
  • Hock Leeバスストライキ。政府見解では共産主義者の扇動者を暴力勃発の理由にしていますが、労働組合指導者は労働者福祉の改善のみを目的にしていました。目撃者証言では警察の謀略が誘発したという解釈を漫画ではとっています。 (50ページ)
  • 漫画「FORCE 136」を、1956年にチャーリーは出版。地元民は猫、日本人は犬、イギリス人は猿で表現しました。中国学校生徒の歌からキャラクターをとった。 (78ページ)
  • 太平洋戦争中のシンガポール華僑虐殺事件 (Sook Ching) が描かれています。(87ページ)
  • 日本統治下において、「おなじアジア人だ」と言って占領した日本人は、現地民を二級市民として扱います。マラヤ人民抗日軍は、抗日戦争を実施。 (91ページ)
  • 「ドラゴン」という週刊漫画を発刊。エイリアンに侵略された未来の月面世界になぞらえて、イギリスからの独立をめぐって、リー・クアンユー氏とリム・チンシオン氏を描く。 (114ページ)
  • 1958年の漫画「ブキ・チャパラン」では、シンガポール独立時の関係者は動物にたとえられて描かれる。例えば、リー・クアンユー氏はネズミジカ、リム・チンシオン氏は猫、学生や労働組合は行進するアリ。話題もたとえられ、独立請願はピクニック、治安はサンドイッチ。 (125ページ)
  • 1959年、漫画「ローチマン」を始める。ゴキブリに噛まれた男が特殊能力を手に入れ、社会の不公正と戦うという内容。政治に加えて、現実に起きている社会問題もテーマになります。英軍将校の妻の殺人事件、欧州や性風俗表の"有害"表現規制、移転がすすめられていた地区で起きた不審火など。1963年2月2日の過激派左翼一世取り締まりが行われた「オペレーションコールドストア」でリム・チンシオン氏が逮捕されたことを受け、ローチマンも話中で捕まる。リム・チンシオン氏は二度目の獄中で自殺未遂を図る深刻な鬱病をわずらい、今後は政治にかかわらないことを条件に開放され、イギリスに亡命、果物売りで生計をたてる。 (150ページ)
  • チャーリーが語る、シンガポール政府の新聞をコントロールする方法。最初にジャーナリストを逮捕する。次に、関連法を変える。同意しない人や自分の心にしたがって発言する人を追放する。最後には、安全や保身を気にする人だけが残る。 (228ページ)
  • 1965年から80年にかけてシンガポールの経済は驚異的な成長を遂げた。与党PAPの巧みな手腕があった。知識人・学生・社会・マスコミからの政府への批判は弾圧をうながした。「サバイバル」の名のもとに全てが正当化された。チャーリーもシンガポールをモチーフにした企業と、それを支配するリー・クアンユー氏をモチーフにしたボスの漫画「シンガポール・インク」を描いたが、公表しようとはしなかった。 (232ページ)
  • 1970年代の中国語新聞の経験に基き描かれている。シンガポールでの中国文化と中国教育への弾圧に直面した年代。理由の一部は、外資誘致のために政府が英語教育に焦点をあてたこともある。 (233ページ)
  • シンガポールで政治犯は、裁判なしに何十年と拘束されることがある。CHIA THYE POHは23年間、LIM HOCK SIEWは19年間、SAID ZAHARは17年間拘束された。暴力と共産主義を捨てるのを拒否したためだ。 (235ページ)
  • シンガポールの新聞は、政府批判のためのものではなく、国民が政府方針を理解することを助けるためのものだ。新聞は、容易に破棄される免許を毎年更新することが必要だ。新聞は独占大企業シンガポールプレスホールディングの傘下にあり、全ての会長は政府が指名した前政府要職者がしめている。 (236ページ)
  • 植民地時代のシンガポールは新聞活動が活発だった。1970年代においても、シンガポールヘラルド紙があった。より独立した立場だったが、即座に発禁になった。直後に、政府は外資と個人の新聞を禁じた。新聞の信憑性のために、ある程度の自由が必要なのを与党PAPは理解していたため、新聞の支配権は銀行のような主要金融機関におかれた。これによって新聞は、個人や政治の理由でなく、商業主義で運営された。 (238ページ)
  • 外資の新聞には異なる手法をとった。不快な記事には、政府意見を編集無く全文を載せることを要求した。ある出版物がシンガポールでの販売を止めることを決めると、「情報の自由な流れ」を阻害するとして政府は法律を修正し、出版社の許可無しに出版物の複製を許可した。 (241ページ)
  • 「大卒母親スキーム」(1980年)「余裕があれば、3人かそれ以上子供を持とう」(1986年)キャンペーンが、リー・クアンユー首相特有の国民構成への方向付けを示しています。1984年に、高学歴女性が多くの子供を産むように、多くの社会・財政上のインセンティブを導入した。一方、高学歴でない女性は、自発的な避妊手術がすすめられました。1950、60年代には世界中で最も高い出産率だったのが、1977年には人口維持が不可能な水準を下回った。それでも、国の遺伝の質に懸念を持ったリー・クアンユー首相の影響を、政府方針は受けていました。優生学の影響を受けていたこれらの政策は、国民の悲鳴によって早々に撤回されました。 (249ページ)
  • 1987年にオペレーションスペクトラムが行われた。カトリック教会に関した多くの社会活動家が逮捕された。政府転覆のためにマルキシズムの陰謀に参加したと非難され、テレビで告白がされました。この政府主張には、広範囲な疑義が持たれています。 (251ページ)
  • 西欧の退廃主義として男性の長髪は、政府に攻撃されました。1982年、政府は公共サービスへの問い合わせの順番に長髪男性を最後にすることを告示しています。 (253ページ)
  • 1956年の中華中学校暴動での「(福建語など方言でなく正しい)標準中国語を話そう」キャンペーンは、シンガポールでの中国語教育の変化を示します。1950年代から70年代の共産主義や中国愛国主義から過小評価されてきたのが、中華系シンガポール人が価値・文化・アイデンティティを維持するのを助けるのに後に使われました。 (255ページ)
  • 1965年の独立以降、ジョシュア(JBJ)氏は1981年に初めて野党の国会議員になった。国会議員の資格を2度無効にされ、巨額な民事訴訟で破産宣告を後にされた。ジョシュア氏は「常に法廷で訴えられた。パンツを失うまで訴えられた」と発言。 (257ページ)